母・眞砂子の生涯

33回忌(2021年3月28日)に向け、母・真砂子の波乱の生涯を写真中心に纏めてみました

生誕1915年11月22日 長野県諏訪郡(現在の諏訪市)において父・竹田一枝、母・志ようの末っ子として生まれました(母・出生の記録
1927年、竹田志よう、竹田一枝が相次いで死去しました(母・眞砂子は12歳
*同年、満州・撫順在住で永安台小学校の訓導(現在の教諭に相当)をしていた長兄・竹田一夫にひきとられ満州に渡りました。撫順市は露天掘りの大規模な炭鉱があることで有名です;

撫順炭鉱・露天掘り

永安台小学校は、撫順駅近くにあり、中国に旅行した時に購入した絵葉書集の中に写真が残っていました;

永安小学校

その後、母・眞砂子は満鉄撫順病院・付属看護学校に入学しました。ここを卒業後、満鉄撫順病院看護師となり、外科婦長まで勤めましたが、父・忠作と結婚すると同時に病院を退職しました

満鉄撫順病院

満洲での生活(結婚前)

結婚前@満州

荒井忠作と結婚(1937年)
*夫・忠作は1933年に渡満、満州航空で職を得ていた
*引揚時の混乱の中で、満州時代のほぼ全ての写真は失われてしまいましたが、父・忠作の実家あてに日本に送った写真が、幸運にも長野の実家で見つかりました

忠作・真砂子の結婚式

1938年長女・悠紀子誕生 ⇒ 1941年死去(4歳/戒名:紀芳善孩女

1941年4月10日長男・威雄誕生
1944年二女・昭子誕生 ⇒ 1ヶ月足らずで死去戒名:昭芳嬰女
1945年4月2日次男・徹誕生
*上記の写真を含め、満州時代の写真はスライドショー(1分程度)にしてYouTubeにアップロードしてあります:満洲時代(1927年~45年)の写真

*終戦直前の1945年8月9日ソ連の大軍が満州に侵攻してから、翌年の日本への引揚げ迄の荒井家の苦難の歴史については「生い立ちの記」参照してみて下さい。また、同じ様に満州に住んでいた竹田ファミリーの苦難の歴史については「母方親族の戦争体験」を参照してみてください
家系図を見れば分かるのですが、両親がこの苦難の時期を乗り越えてくれたお陰で現在の我々子孫があることになります

引揚げ1946年7月
*満州からの引揚者は皆同じですが、満州時代所有していた有形・無形の資産は全て放棄され無一文で引き揚げてきました。冗談みたいな話ですが、2016年になって横浜税関から通知があり、ただの紙切れとなった満洲時代の保険証書、と郵政貯金簿が返還されました!
*引き上げ後は住む場所が決まるまで父の実家(長野県長野市北石堂町)に寄宿
長男・威雄、次男・徹が相次いで腸チフスに罹患、母・眞砂子がニンニクを食べて二人の看病をしてくれたお陰で奇跡的に二人は生還することができました

長野市営アパート(長野市居町)への引越し(1947年)
*一間の簡素なアパートの2階で、トイレ(1階)、炊事場(2階)は共用でした
1948年7月6日三女・眞理子誕生
*満州時代、そこそこ裕福な生活をしていた荒井ファミリーにとって、引き上げ後の生活は非常に厳しいものがありました。航空技術者であった父は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による戦後7年間の航空関連の研究やビジネスの禁止命令」により技術を生かした仕事が得られず、友人から借金をして職業を転々としました(長野特産のリンゴの行商;ベークライトの製品の製造;フォノモーターの製造、など)。長男威雄の記憶によれば、日本航空への就職を果たした後、10年程かけて友人からの借金を完済したそうです
*幼い眞理子が、ちょっと目を離した隙に二階から落ち大腿骨を骨折してしまう事故がありました。この治療は、病院ではなく所謂「骨接ぎ(骨折や脱臼などの治療を専門にする柔道整復師が開業できる施術所)」で行ったため、大腿骨を元の状態に戻して副木(添え木)を当てただけの処置でした。痛みが取れるまで長期間夜泣きがひどく、母が近所迷惑になることを心配して外に出て真理子が眠るのを待つ毎日でした。副木を当てているだけなので、おんぶは出来ず、両腕で水平に抱くしかなかったので並大抵の事ではなかったと思われます
*当然ですが、この厳しい時代の写真はありません

都営住宅(東京都保谷市)への引越し1951年11月
*引き上げ後、父は長野市で始めた仕事に見切りをつけ、東京在住の友人を頼って東京に出て、所沢にあった進駐軍の自動車を整備するビクターオート(株)に就職を果たしました。その後、1956年になって前述のGHQによる「航空関連の研究やビジネスの禁止命令」が解かれ、日本航空が再興されると、満州航空時代の友人からの勧誘があって日本航空で航空技術者として再出発を果たすことができました
*当時、戦災により東京の住宅事情は逼迫していましたが、運よく都営住宅の抽選に当たり、引っ越しました。当時の荒井ファミリーにとっては父の日本航空就職と一戸建ての家の確保は、正に夢の実現でした

1956年・幸せな荒井ファミリー

*この都営住宅での生活は1951年から1969年の18年間続きます。この間に、父は日本航空で順調に地位を上げ、自宅も、井戸から水道に変り、都市ガスが引かれ、風呂が出来、狭いながらも勉強部屋が出来るなど、生活も毎年確実に向上していく幸せな時期でした
*しかし1954年の夏、始めて家族で逗子に海水浴に行った時、眞理子が迷子になり、また帰ってからすぐに母が「日本脳炎」に罹患し2ヶ月ほど入院するという突然の災難に見舞われました。以降、父母は決して海水浴に連れて行こうとは言わなくなりました。その代わり、威雄・徹の2人は夏休みの間、父の長野市の実家で長期間過ごす様になりました

*苦しい家計のやりくりや、3人の子育てで大変だった母も、1960年代に入るとややゆとりが生まれ、華道茶道の趣味に勤しむようになりました

母が取得した華道の免状

1964年6月1日、父・忠作は、長年の航空機整備に関わる貢献を認められて黄綬褒章を受章しました

1964年・黄綬褒章受章

*上記の写真を含め、都営住宅時代の写真は49枚ありますが、これらはスライドショー(約5分)にしてYouTubeにアップロードしてあります:都営住宅時代の写真

新居への移転1969年~
1969年~1971年3月2日>
*敗戦によって一旦挫折した夫婦の夢は、埼玉県新座市に新居を構えることで実現しました。新居の建設はサラリーマンにとってかなり負担の大きい支出を伴いますが、満60歳で退職する際の退職金の充当と併せ、借入金の月賦返済で賄われることになりました
1970年3月31日長男・威雄、小高和子さんの結婚式が神楽坂の「教育会館」で催行されました。折しも日本航空の「よど号」が赤軍派に乗っ取られて国中大騒ぎをしている最中であり、披露宴ではアルコールが入るにつれ、この事件の話で盛り上がっていたとのことです

1970年3月31日・荒井威雄・和子の結婚式

*日本航空では、退職者に海外旅行をする機会を与えていました。当時日本航空が世界一周路線(1967年~1972年)を持っていたこともあり、両親は北半球の世界の主要都市を旅行しました。旅行中は、昔部下だった駐在員の心温まる接待を受け、特に母親は嬉しかったと思います
旅行中の写真は、以下のYouTubeをご覧になってください:世界一周旅行の写真(約2分)程度
*退職後は、既存の伊藤忠航空整備(株)に日本航空と全日空が資本参加して生まれ変わった新日本航空整備株式会社(JAMCO)の初代社長に就任しました(以下の写真はJAMCO25周年記念の社史より転載しました)

*既にこの4月の時点で後述する死の病に罹っていたと思われ、昔の部下が自宅に訪ねてきた時、酒のお付き合いができないのを見かねて私(徹)が一緒に訪問客の酒のお付き合いをしたことを思い出します(下記の写真はその時のもの)

1970年4月・自宅応接間にて

*この年の8月、両親と私(徹)が長野のとある温泉に出かけた時、父親は既に宿の階段を上る事にも苦労していました
9月17日、胃潰瘍の手術をするという名目で開腹手術を行ったところ、「胃がん」の末期で何も治療できない状況にあることが判明。当時の倣いとして本人には病名を知らせず、家族だけに余命いくばくも無いことを知らされる為、その後、亡くなるまでの約半年間、母の心の葛藤、苦しみは大変なものだったと思われます

1971年2月27日、父・忠作死去(享年61歳)
葬儀は3月2日、三鷹・禅林寺に於いて社葬にて執り行われました。尚、新築した家の借金は亡くなる1カ月前に完済していました。下記の写真を含め、葬儀の写真はスライドショー(約1分半)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1972年3月2日_父・忠作の葬儀

<1971年3月3日~1988年3月28日>
*父・忠作と手を携えて、戦前、戦中、戦後の厳しい時代を乗り越えてきた母・眞砂子にとって夫・忠作の死の衝撃は余りに大きく、暫くは何も手につかない状況でした。しかし、翌年の三回忌に備え墓地の確保、墓石の準備、などに心を砕いていました
*死亡した日と同日付で、勲五等双光旭日章を授与されました

*戒名は荒井本家の菩提寺である昌禅寺でつけてもらいました。この時は、母・真砂子と長男・威雄の他に、父・忠作の親友が付添ってくれて、航空界に一生を捧げた父の経歴を説明した結果、以下の様な立派な戒名を授けて頂きました:大泉院千峰一機居士

1971年4月20日威雄家の長女・朋子誕生

1972年2月27日、新しく檀家となった東京都羽村市の宗禅寺に於いて父・忠作の一周忌を催行しました

1972年2月27日_父・忠作の一周忌

1972年、母・真砂子も家族親戚に支えられて元気になってきました。下の写真は1972年冬に撮影された長男・威雄の家族と姪・水島享子さん家族との写真です

1972年・冬

1973年4月三女・眞理子は、近藤清さんと結婚しました。結婚式は愛媛県松山市土居町にある清さんの実家近くの茅葺き屋根にぺんぺん草が生えている神社で催行されました。披露宴は実家の広い部屋で座卓を並べた会場で、時間無制限で酒を差しつ差されつするという、都会での結婚式とは一味違った経験をすることができました

*1973年6月、次男・徹は佐藤秀子と結婚しました。式場は二人が出会うきっかけとなった神田一橋の学士会館です

1974年9月、次男・徹、秀子と母・眞砂子がハワイ旅行に出かけました。また、12月にはその後恒例となったクリスマス会を自宅で行いました。ハワイ旅行の写真はスライドショー(約1分半)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1975年5月21日徹家の長女・清香誕生
1975年6月14日威雄家の二女・暢子誕生

1975年の写真

1976年は家族、親戚に囲まれて幸せそうでした。1976年の写真5枚はスライドショー(約30秒)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1977年3月父・忠作の七回忌を宗禅寺にて催行しました、この時の写真7枚はスライドショー(約40秒)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1977年10月11日徹家の長男・健一郎誕生

1978年4月26日近藤家の長男・晋太郎誕生

4月・晋太郎くんのお宮参り_11月・威雄ファミリーと一緒@箱根

1979年1月12日徹家の次男・怜志誕生

1979年の出来事

1980年の出来事

1981年4月30日近藤家の長女・理絵子誕生

理絵子ちゃんお宮参り

1982年の出来事。下記の写真を含め19枚の写真は1982年の出来事としてスライドショー(約2分)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1982年の出来事

1983年2月27日父・忠作13回忌を宗禅寺に於いて催行しました。この法事以外の写真を含め35枚の写真は、1983年の出来事としてスライドショー(約3分半)にしてあります

1983年2月27日・忠作13回忌

1984年11月徹家の次男・怜志近藤家の長女・理絵子七五三を迎えました。また、親戚、家族の誘いで沢山の国内旅行(善光寺、霧ヶ峰高原、西武園遊園地の花火、萩寺、会津磐梯山、など)を楽しんだ幸せな年であったと思われます。以下の写真を含め48枚の写真は、1984年の出来事としてスライドショー(約5分)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1983年11月・七五三(怜志:5歳、晋太郎:6歳、理絵子:3歳)

1985年1月25日近藤家の次男・悠爾誕生
1985年11月22日、母・眞砂子の古希の祝いを行いました。また1984年同様、親戚、家族の誘いで沢山の国内旅行を楽しんだ幸せな年であったと思われます。以下の写真を含め49枚の写真は、1985年の出来事としてライドショー(約5分)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1986年も親戚、家族、友人との交流を頻繁に行い充実した1年だった思われます。以下の写真を含め49枚の写真は、1986年の出来事としてスライドショー(約5分)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1986年の出来事

1987年は母・眞砂子が亡くなる前年に当たります。持病となっていた「心房細動」により、旅行を楽しむ体力が無くなっていたのかもしれません。以下の写真を含め14枚の写真は、1987年の出来事としてスライドショー(約1分半)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1987年の出来事

1988年3月28日「心房細動」による心房内の血腫が原因で母・眞砂子が死去しました。正月に3回目の発作を起こし、救急車で近所の「堀之内病院」に入院しました。小康を得た後、心房内の血種を取り除く根本的治療を行う為に東大病院に転院して手術を待っていましたが、予定されていた手術日の前日に、見舞いに来ていた華道教室の生徒さん達に見守られて息を引き取りました

戒名:慈泉院眞相妙覚大姉  合掌

心残りな事は、堀之内病院から手術のために転院する際、主治医の薦める病院ではなく、私(徹)の一存で友人がいる東大病院を選んでしまったことです。もし主治医が薦める病院に転院していれば、待たされずに手術ができ生き続けることができたのではないかと、、、

以上

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