荒井ファミリーのレジェンド達の足跡

 荒井ファミリーのレジェンド達の足跡ー

ー 荒井彦太郎、竹田一夫に関わる荒井ファミリーの系図 ー
(兄・荒井威雄作成の系図を使用)


ー 荒井彦太郎の足跡 ー

① 荒井彦太郎が生きた時代(1860年/万延元年~1928年/昭和3年)
<幕末・激動の時代>
@ 1853年:ペリー来航(←日本との通商開始を迫った)
@ 1857年:吉田松陰による松下村塾の開塾(⇒ 勤王の志士、明治の元勲育成)
@ 1858年:日米修好通商条約調印(主役は井伊直弼)
@ 1858年:安政の大獄(井伊直弼により吉田松陰を含め多数の勤王派を粛清)
@ 1860年:3月3日、桜田門外の変(水戸浪士を中心とする井勤王派が伊直弼を暗殺)
@ 1860年:3月20日、荒井彦太郎生誕
* 1862年:朝ドラで話題の牧野富太郎生誕
@ 1862年:皇女・和宮が第14代将軍・徳川家茂と結婚(⇒ 竹田佐久代の嫁ぎ先である土屋家は、和田峠で降嫁行列の宿舎を提供した)

@ 1863年:薩英戦争(薩摩軍は英国軍に敗退、西欧列強諸国の強さを知る
@ 1864年:京都・池田屋事件(勤王の志士が多数殺害された)
@ 1864年:蛤御門(はまぐりごもん)の変(長州郡が京都に攻め込み敗北した)
@ 1864年:下関砲撃事件(長州は米・英・仏・蘭の連合艦隊に敗退、西欧列強諸国の強さを知る
@ 1866年:薩長同盟成立(薩摩・長州は討幕の主役となる)
@ 1867年:討幕の密勅(岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛)
@ 1867年:徳川慶喜による大政奉還と王政復古の大号令
@ 1868年:鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まる(全国で戦争が行われ、1969年5月函館戦争で終結した)
@ 1868年:五箇条の御誓文 :江戸を東京と改称し、年号を明治とした — 荒井彦太郎8歳

<明治新政府による矢継ぎ早の改革>
@ 1869年:東京に遷都;版籍奉還(中央集権政治の開始)
@ 1871年:郵便制度開始;廃藩置県
@ 1872年:学制公布(⇒ 全国を8つの大学区に分け、各学区に大学校、中学校、小学校を1校ずつ設置);新橋・横浜間に鉄道開通
@ 1873年:徴兵令地租改正条例(←全国同じ基準で、貨幣で税を徴収する仕組み) —荒井 彦太郎13
@ 1876年:廃刀令(⇒ 武士の特権/誇りが最終的に失われた)
@ 1877年:西南戦争(士族の最後の反乱;明治維新の功臣・西郷隆盛が自害)
@ 1889年:大日本帝国憲法の発布 — 荒井彦太郎29歳
@ 1890年:大日本帝国憲法の発布;第一回衆議院議員総選挙;第一回帝国議会

<近代国家としての歩み ⇒ 戦争の時代へ>
@ 1894年:日清戦争(戦死者/1,415人、病死者/11,894人) — 荒井彦太郎34歳
@ 1895年:下関条約(下関の「春帆楼」で行われたた日清戦争の戦後処理:朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖列島の日本への割譲、清から日本への賠償金支払い、など;三国干渉により遼東半島は返還
@ 1902年:日英同盟締結
@ 1904年~1905年:日露戦争(戦死者/約84,000人 — 荒井彦太郎44歳
@ 1905年:ポーツマス条約(北緯50度以南の樺太を日本に譲渡、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲渡、ロシア沿岸の漁業権を日本に譲渡)@ 1909年:荒井忠作生誕(12月17日)
@ 1911年:明治45年 ⇒ 大正元年 — 荒井彦太郎51歳
@ 1911年:関税自主権を回復(真の独立国家となった;外務大臣・小村寿太郎)
@ 1911年:辛亥革命 ⇒ 清国が滅亡し中華民国の建国(1912年1月1日、孫文が臨時大統領就任)
@ 1914年:サラエボ事件(オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナンド大公とその妻ゾフィーが、セルビアの秘密結社「黒手組」のメンバーであるガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件 ⇒ 第一次世界大戦のきっかけとなった)
@ 1914年~1918年:第一次世界大戦

War cemetery north east of Verdun in France commemorating those who died during the Battle of Verdun in 1916. The building behind the cemetery is the Ossuary of Douaumont containing the skeletal remains of at least 130,000 unidentified soldiers.

@ 1914年:対華二十一か条の要求(中国民衆の反感を買った)
@ 1919年:パリ講和会議(日本は戦勝国側となり、以後列強の一つと数えられるようになった)⇒ ベルサイユ条約
@ 1920年:国際連盟設立(日本は英・仏・伊と並び常任理事国となった)
@ 1922年:ソビエト社会主義共和国連邦の誕生
@ 1923年:9月1日、関東大震災
@ 1926年:大正15年 ⇒ 昭和元年
1928年:10月25日、荒井彦太郎逝去(享年68歳)

② 国会図書館に残っている荒井彦太郎の足跡概観
国会図書館には、日本橋の東洋堂という出版社から1889年~1916年までの27年間に発行された「風俗画報」518冊が所蔵されています。この風俗画報発刊の目的については、その編集者の趣意書で以下の様に述べられています

「風俗 画報 」発 刊 主 意

風俗画報は、専絵画を応用して台閣(行政府)、都・鄙村落に論なく衣服器財の現象、冠婚葬祭の様式、神社の祭典、仏寺の行法、古来風俗の今に存するもの旧典古礼の猶行はるもの、殿堂屋宇建設の規模、舟・車・橋梁制作の模形、有名男女の肖像、歌舞音楽の姿態、会衆遊宴、平居操作の状況等、凡人事 百般貴賎公私の別なく喜怒哀楽の状 一116一 に至る迄、眼前に見る所の風俗を網羅集載し、以て後世に伝え、歴史・工芸・其他諸科の考証及研究の用に供せんとす。是を再言すれば、即画を以て一の私史を編纂するの料を作るに異らざるなり。凡絵画の用は観美快楽の資に充つるに止らず、文の悉くすこと能はざるもの図画を待ちて之を後世に伝ふべき者にして、画は文の形文は画の声なり、二者相得て以て今尚昔を見ることを得るに至る而して後の今を見るも亦今の昔を見るに異らならざる也。試みに維新以降今日に至るまでの間を回想すれば、欧米新事物の輸入と共に旧態大卒消滅して僅に二十余年の間其痕跡を止むるもの幾許そや。唯一の浮世絵ありて僅に其一斑を窺ふに足るのみ。是時世の劇変に遇ふに因ると錐も又形を以て伝ふるもの無きが為なり。乃ち画報一たび世に出で其形を印象し、其声を文章 にするときは、千百年の後歴々既往現今の状勢を知時世変遷のを原ぬることを得、政事学芸に稗益すること応に鮮少にあらざるべし。敢て請ふ同感の君子・貴女此挙を賛成し、併せて紙上に掲載すべき確実の材料を寄贈せられん ことを
                                                 風俗画報編者謹 白

要は、明治維新以降、急激に変化していく生活様式、世相、風俗、ETCを絵や文章を使って分かりやすく説明し、そのレガシーを後世に残していくことと言えます

*荒井彦太郎が生きた時代は、明治維新以降先進国と肩を並べるために矢継ぎ早に行われた大胆な国内改革、そして国内体制が整った後一気に対外戦争に乗り出し、欧米列強に伍する強国にのし上がった激動の時代でした。その過程で、恐らく市民生活は多くの変革を迫られたものと思われます。幸いにも、日本人はこうした激動の時代にあっても古い伝統の大切な部分を残し、現代にいたるまでそのレガシーを受け継いでいます。荒井彦太郎はこの「風俗画報」に以下の4編の文章を残しています。いずれも達意の素晴らしい文章でこのレガシー継承の担い手として活躍していたことは、我々荒井ファミリーにとっての誇りといえるのではないでしょうか

a.長野町の歳末年始_1894年風俗画報_65(彦太郎34才の頃)

b.善光寺前立本尊_1894年風俗画報_72(彦太郎34才の頃)

<参考> 前立本尊とは;
善光寺の御本尊は住職ですら絶対に見ることができない秘仏とされています。その御本尊を模したといわれるものが「前立本尊」です。一つの光背のなか、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、独特のお姿をされています
普段は御宝庫に安置されているその前立本尊(下の右の写真)を、数え年で7年に一度、本堂にお迎えして行われるのが「善光寺前立本尊御開帳」です。御開帳の期間中は、本堂前に高さ約10メートルの回向柱(えこうばしら;下の左の写真)が建立され、本堂内の前立本尊と「善の綱」で結ばれます。そのため、回向柱にふれると前立本尊にふれるのと同じ功徳が得られるとされ、柱付近は毎回、参拝者で賑わいます
c.長野町の婚礼_1894年風俗画報増刊_75(彦太郎34才の頃)

d.荒井彦太郎_刈萱山西光寺_1901年風俗画報_230(彦太郎41才の頃)
<参考> 刈萱山西光寺は現存しており、この説明はウイキペディアにも載っています


ー 竹田一夫の足跡 ー
① 竹田一夫が生きた時代(1895年/明治28年~1976年/昭和51年)
<近代国家としての歩み ⇒ 戦争の時代へ>
@ 1895年:下関条約(日清戦争の戦後処理)締結
@1895年:12月9日、竹田一夫生誕
@ 1902年:日英同盟締結
@ 1904年~1905年:日露戦争(⇒ 日本人の戦死者:約84,000人 
@ 1905年:ポーツマス条約(北緯50度以南の樺太を日本に譲渡、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲渡、ロシア沿岸の漁業権を日本に譲渡)
@ 1911年:明治45年 ⇒ 大正元年 — 竹田一夫16歳
@ 1911年:関税自主権を回復(真の独立国家となった;外務大臣・小村寿太郎)
@ 1911年:辛亥革命 ⇒ 清国が滅亡し中華民国の建国(1912年1月1日、孫文が臨時大統領)
@ 1914年:サラエボ事件(オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィーが、セルビアの秘密結社「黒手組」のメンバーであるガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件 ⇒ 第一次世界大戦のきっかけとなった)
@ 1914年~1918年:第一次世界大戦 
@ 1914年:対華二十一か条の要求(中国民衆の反感を買った)
@ 1914年:竹田真砂子生誕(11月22日)
@ 1916年:竹田一夫(21歳)、長野師範学校卒業 ⇒ 長野県南安曇郡豊科小学校の訓導(旧制度における教員)
@ 1919年:パリ講和会議⇒ ベルサイユ条約(日本は戦勝国側となり、以後列強の仲間入りをした)
@ 1919年:竹田一夫(24歳)、長野県上伊那郡朝日小学校の訓導
@ 1920年:国際連盟設立(日本は英・仏・伊と並び常任理事国となった)
@ 1921年:竹田一夫(26歳)南満州鉄道(株)出向 ⇒ 撫順市永安台小学校
の訓導
@ 1922年:ソビエト社会主義共和国連邦の誕生
@ 1923年:9月1日、関東大震災
@ 1926年:大正15年 ⇒ 昭和元年 — 竹田一夫(31歳)、
理科教授法研究のため半年間内地留学
@ 1926年:竹田一夫、撫順第二小学校・満州教育専門学校付属小学校・遼陽小学校の訓導
@ 1927年:両親(竹田一枝・志やう)が相次いで死去 ⇒ 竹田眞砂子(12歳)は竹田一夫の住む満州へ

<軍国主義への傾斜>
@ 1929年:世界恐慌
@ 1930年:ロンドン海軍軍縮会議
@ 1931年:竹田一夫(36歳)、奉天千代田小学校の訓導
@ 1931年:満州事変(満州のほぼ全域を占領してしまう)
@ 1932年:満州国建国(⇒ 日本が国際的に孤立)— 竹田一夫(37歳)
@ 1932年:5.15事件(海軍青年将校による反乱、犬養毅首相の殺害)
@ 1933年:国際連盟脱退(リットン調査団の報告の採択を巡って国際連盟脱退(松岡洋右の演説
1933年:荒井忠作(23歳)、満州航空に入社
@ 1935年:竹田一夫(40歳)、遼陽小学校・遼陽青年学校の校長
@ 1936年:2.26事件(陸軍の青年将校による反乱 ⇒ 高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、 渡辺錠太郎陸軍教育総監、等を殺害 ⇒ 以降、言論の封殺・軍部の専横強まる)
@ 1937年:7月/盧溝橋事件 ⇒ 日中戦争(~1945年)
@ 1937年:11月/南京事件(多くの中国軍人、市民が殺害された)
@ 1937年:竹田一夫(42歳)連山関小学校・奉天弥生青年学校・本渓湖青年学校の校長
@ 1938年:国家総動員法成立(国家総力戦の始まり)
@ 1938年:荒井忠作・(竹田)真砂子結婚
@ 1939年:第二次世界大戦(欧州戦線の開戦)勃発
@ 1940年:日独伊三国同盟成立(枢軸国として米英を中心とする連合国と対峙することとなった)
@ 1941年:日ソ中立条約締結(4月)
1941年:真珠湾攻撃(12月8日)⇒ 太平洋戦争開戦(~1945年8月15日)

@ 1945年:3月10日/東京大空襲 ⇒ 4月/米軍沖縄上陸 ⇒ 5月ドイツ降伏 ⇒ 8月6日/広島原爆投下 ⇒ 8月8日/ソ連対日宣戦布告 ⇒ 8月9日/長崎原爆投下⇒ 8月15日/ポツダム宣言受諾・太平洋戦争終結 9月2日/ミズーリ号上での降伏文書調印
@ 1946年:満州からの引揚

<廃墟となった日本の再建 ⇒ 高度経済成長>

@ 1947年:日本国憲法施行(5月3日)
@ 1950年:朝鮮戦争勃発(~1953年休戦協定成立)
@ 1951年:サンフランシスコ平和条約締結(⇒ 連合国による占領が終結、日本は主権回復;日米安全保障条約締結)
@ 1954年:自衛隊設置
@ 1960年:ベトナム戦争(~1975年)
@ 1962年:キューバ危機(10月)
@ 1964年:東海道新幹線開業(10月1日)⇒東京オリンピック開催(10月10日)
@ 1969年:アポロ11号が人類初の月面着陸(7月)
@ 1970年:日本初の人工衛星「おおすみ」打ち上げ(2月)
@ 1970年:日本万国博覧会(大阪万博)開催(3月~9月)
@ 1972年:札幌オリンピック開催(2月)⇒ あさま山荘事件(2月)⇒ 沖縄返還(5月15日)⇒ 日中国交回復(9月)
@ 1973年:第一次オイルショック
@ 1975年:沖縄海洋博開催(~1976)
@ 1976年:7月16日、竹田一夫逝去(享年82歳)
@ 1978年:第二次オイルショック ⇒成田空港開港(5月)⇒ 日中平和友好条約を締結(8月)

② 竹田一夫の足跡概観
*竹田一夫の人生は、教員を目指して師範学校を卒業したのち、長野県内での訓導(教員)を4年ほど勤めた後、満州に於ける軍事を除く行政全般に関わる植民地経営を行っていた満鉄(南満州鉄道株式会社)に出向して青少年の教育に全身全霊で打ち込んでいました。また両親が亡くなった後に残された弟・妹(眞砂子)、等を満州に引き取り、彼らが自立するまでの親代わりを全力で努めていました。我々荒井ファミリーにとって、正に戦前・戦中・戦後の目標となるレジェンドの一人であることは言うまでもありません
*満州に於ける青少年の教育に関しては、満州事変を主導した石原莞爾が目指した「五属協和」、「王道楽土」の理想(詳しく知りたい方は私のブログ:「満州国」その”うたかたの夢”をご覧ください)及び、満州経営の基本になる広大な満州の農地開拓を目指す「農本主義」を青少年に植え付けようとしたのではないかと思われます。ただ結果として、多くの若い兵士の死や、満蒙開拓団家族の死を招いてしまった長野県の教育方針が戦後非難を浴びていることも事実です。戦後、竹田一夫は教育の世界から完全に離れて、行商で日々の糧を得る生活に変えていきましたが、これは恐らく戦前の教育を担った人の潔い結果責任の取り方であったと思います
しかし私は、「五属協和」、「王道楽土」、「農本主義」に基づく教育自体は、間違ってはいないと思います。泥沼の日中戦争に突き進んでいったことが、日本の間違いの本質であったと思います

*竹田一夫の満州国における理想の教育の具体的内容については、竹田一夫の妻・ますみと姻戚関係のある松沢正雄氏の以下の記事をご覧になってください;

以上