父・忠作の生涯

 2021年3月8日に母・眞砂子33回忌に併せ、父・忠作の50回忌法要を催行致しました。この機会を捉え、先の戦争を挟んで波乱の人生を送り、61歳の若さでこの世を去った父の生涯を振り返ってみることを思い立ち、仏壇や書庫の奥に仕舞い込まれた写真や資料類を取り出して時系列に整理して纏めてみました

1.生誕から長野工業高校卒業まで
生誕:1909年12月17日、長野駅近くの北石堂町で生まれました(父:荒井彦太郎、母:トキ)
その後、恐らく(記録が無い)自宅近くの尋常小学校、高等小学校に通ったものと思われます。下の写真は高等小学校時代の集合写真と思われます。〇で囲った人が父・忠作の若い頃の写真だと推定されます;

その後、長野県立・長野工業高校機械電気科に進学し、1929年3月卒業しました(19歳)

長野工業高校時代

 この高校生時代の頃と推定されますが、4歳年上の姉(つる)が嫁入り後まもなく脊椎カリエス(結核菌が脊髄に侵入し助かる見込みの少ない病。ものすごく苦痛を伴います:正岡子規もこれに罹り亡くなった)に罹り、亡くなる不幸があり大きなショックを受けたようです。折々に仏前で「般若心経」を唱えたり、座禅をする習慣は、この時感じた「人生の虚しさ」が発端だったと聞いています

2.自動車学校の教官として就職
 卒業後、篠ノ井(長野駅から篠ノ井線で二駅目)にある自動車学校の電気の教師の職を得、自分よりはるかに年上の上、電気の知識の無い生徒に教えるのに苦労したようです

自動車学校の教官時代

 その頃の多感な父の心の遍歴、徴兵検査などについては、晩年日本航空のライン整備工場長時代(後述)に若い社員向けに書かれた以下の「私の二十歳の頃」をご覧ください(古い冊子のコピーなので少々読みにくいこと、お許しください);

1929年6月、上記の文章にも書かれていますが、この当時、人生最大の分岐点となる徴兵検査を20歳の6月に受け不合格になっています

3.航空業界の登竜門に立つ
1930年3月、この自動車学校の校長先生の薦めもあって、当時、軍以外の航空輸送事業の発展を図る目的で作られた国策の教育機関:逓信省航空局委託・航空機関士課程第4期生として入学しました。これが父・忠作が航空業界に進むきっかけとなりました
 この3年間は父・忠作の人生にとって人格的にも、教養の面でも大きく成長する機会になった様です。1932年の約一年間、父・忠作の成長の記録を探る手段として貴重な日記が残っていました;

1932年の俳句日記

 この日記は1932年2月27日~12月30日の間、若干の未記入の日がありますが、全246日分の自筆の文章が残っています。当時としては当然ですが、やや崩れた行書体で書かれており、読み解くのは困難を極めましたが、兄・威雄と妻・秀子の助けを借りてようやく父・忠作の成長の記録として重要と思われる60日分を若い人にも理解可能な文章に変換することができました。但し、文体はできるだけそのままにして、父の若い日の雰囲気を偲べるようにしています。以下は、この日記の大要を記したものですが、詳しい内容は「1932年(昭和7年)荒井忠作日記」をご覧になって下さい。尚、どうしても解読できなかった字や文章は”??”の表記にしてあります。また、分かり難い字や表現の解説や補足青字にして区別できるようにしています;

<この時代の政治・経済情勢>
1929年、米国での株価大暴落を機に世界大恐慌が起こりました。これにより日本の多くの産業分野が連鎖的な不況に苦しむ状況になりました
1930年、浜口首相、井上蔵相が「金解禁」を行ったことにより、日本の輸出産業は壊滅的な打撃を受けました
1931年、東北、北海道地方は冷害によって大凶作となり、日本全体に深刻な社会問題が発生しました
1931年9月、満州事変発生(以後1945年の終戦まで長い戦争が継続しました)
1932年3月、「満州国」の建国
*こうした社会情勢により、共産党の活動が盛んになり、これに関わる事件なども日記に記録されています
*この時代の政治情勢について詳しく知りたい方は、私(徹)のブログ「日本の戦争の時代についての一考察」をご覧ください(長文なので、時間のある時にどうぞ!)
<東京での生活>
*東京では下宿をしていました。この年の9月に代々木周辺から三鷹周辺に引越しをしています。友人も下宿している者が多く、お互いの下宿を訪問する機会も多かった様です
*国策の教育機関なので給与が支給されていたと思われますが、本の購入、夜間大学の授業料などで生活は楽ではなく、時折友人から借金をしていました
*スポーツは友人との庭球(テニス)の他、水泳(愛知県知多半島、新潟県の海水浴、玉川「多分多摩川のこと」)を楽しんでいました
*知識欲が旺盛であったので、度々本屋巡りをして本を購入すると同時に、暇があれば図書館で本を読んでいました。上記引越しの際は、所蔵する本が多すぎて新しい下宿先に直に送れず、近くの友人宅に仮置きして、少しづつ新しい下宿先に運んでいったという記述があります
*10月30日~11月28日の間、「尻の中にあった豆」と称していますが、恐らく「痔」の治療を行っていますが、これは歳を取ってからも何度も再発しています

<航空機関士課程での勉学>
航空力学熱力学気象学応用数学微分・積分学航空法規などの座学に加え、エンジンの分解・組立・調整、などの実習が毎日の様に行われていました ⇒ これらは私(徹)が大学の航空学科で学んでいた時と同じレベル
英語だけでなく、ドイツ語の勉強をかなりやっていますが、これは、当時航空先進国となっていたドイツの文献を理解する必要があった為と思われます
<夜間大学での勉学>
旧制高校、大学での教養課程に相当する文系の講座を受講していたものと推定されます

<教養に関わる記述>
文学の分野:ゲーテ、カーライル、ブレイク、ゴーリキー、石川啄木、寺田寅彦、島木赤彦などの作品を読んでいます。尚、偶然ですが、アララギ派歌人の島木赤彦は、母方の近い親戚にあたります
哲学の分野:ヘーゲル、カント、パスカル、和辻哲郎、などの著作を読んでいます
政治の分野:「史的唯物論」、「ドイッチェ・イデオロギー」などを読み、マルクス、エンゲルスの社会主義にある程度通じていると同時に、雑誌「思想」などを購読していますので、当時の政治に対して批判的であったと思われます(そうした記述も日記に入っています)
<人生の苦悩に関する記述>
*日記には、人生の苦悩に関する沢山の記述があります。詳しい内容に興味のある方は「1932年(昭和7年)荒井忠作日記」の【4月11日、5月7日、23日、6月3日、10月21日、24日、11月19日、28日、12月5日】の記述をご覧になって下さい
<人生の選択に関する記述>
*2月29日、福岡で飛行機の墜落事故があり、同じ航空機関生の先輩二人が死亡しました。航空機関士として乗務することは死のリスクが高いことを実感したことが、後に満州航空に就職してから地上職の職変していることと関係があると推察できます
*9月28日、満州航空設立の発表
*12月27日、満州に行く事につき、母(とき)の了解を得ました

<補足>
*日記帳として「俳句日記」を選んでいることは、後の趣味が俳句であることに繋がっていると考えられます
* 若い頃の姉の死、また4年前には父・彦太郎を亡くして(1928年10月25日)いたこともあって、仏教に通じ、随所に「生老病死」について仏教的な考え方が滲み出ています

1933年3月、ここを卒業した後、4月から9月までの半年間、当時航空機製造の大手企業であった中島飛行機製作所に勤めていますが、これは当時最新の航空機製造の現場を経験する為だったと思われます

4.満州航空時代
1933年10月、23歳で満州航空に入社しました。その後、かなり早い時期に航空エンジンの理論、及び整備の専門家(業務部・検査課)として実務に没頭していたと思われます。この頃の貴重な写真として以下があります;

1936年3月・奉天航空工廠発動機試運転場・「壽」第334号600時間耐久運転時の撮影

 」というエンジンは、中島航空機(株)で1929年に開発が開始されました。1931年に「寿一型」として正式採用され、その後改造型が順次開発されましたが、搭載された主な航空機に「フォッカー・スーパーユニバーサル」、「九六式艦上戦闘機」、「九七式戦闘機」、などがあります;

「壽」エンジン搭載機

 後述する父の葬儀に於ける弔辞の中に、この「」エンジンが旅客機(フォッカー・スーパーユニバーサル)用エンジンとして装備された後、父・忠作は信頼性向上の為の研究、改修を行っていたことが書かれてありました。当時、航空機の開発は急速なピッチで進められており、マニュアルなどの準備が整わない中で、信頼性向上の為の研究、改修は現場の技術者の努力に負う事が大きかったと言われています。
 因みに、この「壽」エンジンを土台として、中島航空機(株)が、次の世代の航空機エンジンとして開発したものが、有名な「ゼロ戦」に搭載された「」エンジンです

 恐らく航空エンジン技術の最先端を担っていたこの時代に書かれたものと思われますが、父・忠作が執筆した論文(ブリストル・スリーブバルブ・エンジン航空発動機の発達及諸問題)が残っています

1937年、(竹田)眞砂子と結婚。引揚時の混乱の中で、満州時代のほぼ全ての写真は失われてしまいましたが、母親あてに日本に送った写真が、幸運にも長野の実家で見つかりました;

忠作・真砂子の結婚式

1938年8月19日長女・悠紀子誕生

結婚前後の写真@満州

長女・悠紀子誕生後に日本へ里帰りした時と思われる写真が以下の写真です;

日本へ里帰りした時の写真

 左の写真は年末年始の頃に実家に里帰りした時の写真の様です。左側には兄・吉太郎夫妻。中央に忠作夫妻の長女・悠紀子(推定0歳)を抱く母・とき、その右が吉太郎夫妻の長女・いづみさん(推定7歳)だと思われます。右の写真は、その翌年(1939年頃)伊勢の「二見興玉神社の夫婦岩のそびえる禊の浜」で撮った写真と思われます

1941年4月10日長男・威雄誕生
1941年7月29日
長女・悠紀子死去

1943年10月(33歳)に満州航空株式会社の社長表彰を受賞しています

1944年二女・昭子誕生 ⇒ 1ヶ月足らずで死去

二女・昭子の葬儀

1945年4月2日次男・徹誕生

1945年8月9日ソ連の大軍が満州に侵攻してから、翌年の日本への引揚げ迄の荒井家の苦難の歴史については「生い立ちの記」参照してみて下さい。また、同じ様に満州に住んでいた竹田ファミリーの苦難の歴史については「母方親族の戦争体験」を参照してみてください
家系図を見れば分かるのですが、両親がこの苦難の時期を乗り越えてくれたお陰で現在の我々子孫があることになります
1946年7月、 引揚げ(36歳)
*引揚げ後の苦しい生活については、「母・真砂子の生涯」と重複していますので。詳しくはそちらをご覧になって下さい

5.引揚げ後、日本航空入社までの職歴
 終戦後、進駐してきた連合軍総司令官のマッカーサーは、太平洋戦争中、日本軍の航空機による攻撃に悩まされたこと(開戦初期の空戦能力に優れたゼロ戦の攻撃戦争末の特攻機による攻撃)から残存航空兵力の破壊に止まらず、日本人による航空に関する研究開発、航空会社の活動など全てを禁止しました。この結果、航空事業に従事していた父・忠作などの技術者は、戦後の厳しい生活環境の中で家族の糧を得るために死に物狂いの努力を続けました。このマッカーサーの命令は戦後7年間続きました
1947年、2月 長野電気研究所(37歳)
1948年7月6日三女・真理子誕生

 長野での職探しに見切りをつけた父・忠作は、友人を頼って単身東京に出て、職探しを始めました
1950年、7月 ビクターオート株式会社(40歳)入社

1951年、8月 日本航空設立
1951年、10月 戦後の日本航空第一便(羽田空港→伊丹空港)就航。航空機はマーチン202型機、航空機の愛称は「もく星号(1952年4月9日、伊豆大島の三原山に墜落)」

戦後の日本航空・第一便

1951年11月、東京都保谷市にある都営住宅へ家族全員を呼び寄せました

6.日本航空整備(株)⇒日本航空(株)の時代
 この時代、航空関係で職を失っていた人々(旧大日本航空、満州航空、満州飛行機製造、などで働いていた人々)が、徐々に新しく設立された日本航空に集まってきました
1953年4月日本航空整備株式会社に入社しました。既に年齢は43歳、一介の整備士として再出発しました

1956年@エンジンショップ

1956年2月日本航空整備(株)管理部検査課・課長に昇格
この頃、俳句同好会「江戸見」に所属しており、その句会の準備の為、あるいは吟行で読んだ俳句の下書きが残っています:俳句帖(1956年~1960年俳句帖(1962年~1963年)

1958年_都営住宅時代の家族写真

1959年5月日本航空整備(株)原動機部・次長に昇格

1960年7月、日本航空はDC-8型のジェット旅客機を初めて導入しました。パンアメリカン航空が太平洋路線に始めて導入したB707ジェット旅客機に旅客を奪われたため、急遽導入を決めたものです

DC8-30 1号機「Fuji号」

 日本航空にとって、ジェット機の導入は初めての経験であり、とりわけ従来のレシプロ・エンジンとジェットエンジンの構造や、整備方式には相当の違いがあり、導入の前年に同僚と二人でプラット・アンド・ホイットニー社に2ヶ月程研修出張に行きました。この当時アメリカへの出張は大変珍しく、私(徹)も兄・威雄に連れられて羽田空港まで見送りに行っことを覚えています。また、長期出張中に貯めたお金で、ブランド物の腕時計(父母用)や、引揚時に失った母の結婚指輪に代わるダイヤの指輪を買って来たことを思い出します

1961年9月日本航空整備(株)原動機部・部長に昇格

1962年10月運輸大臣表彰(航空功労賞)(52歳)

航空功労賞・受賞式

1963年10月日本航空整備(株)は日本航空(株)に吸収合併されました
1963年10月ライン整備工場長就任。ライン整備工場は、国内線、国際線全ての航空機の定期整備(オーバーホール、大型改修を除く)、及び運航整備を担当しており、当時でも1500人を超える整備士を擁する大きな組織でした。また、当時、共産党系の労働組合による争議が頻繁にあり、最終的に共産党系の組合から穏健な組合(全日本航空労働組合)を分離させるという、労務経営上の大仕事の責任者の一人として、非常にストレスの多い毎日を送っていました

ライン整備工場

1964年6月黄綬褒章・受章(54歳)。見出しの写真はこの時のものです

1968年4月日本航空(株)の理事に昇格(58歳)。これより、会社への通勤は全てタクシーが配車されることとなりました
1969年5月日本航空整備協会・副会長

1969年、新居建設、移転。埼玉県新座市宅地を購入し、殖産住宅(株)に新居を発注しました。この時の借入金の返済は、亡くなる一カ月前の1971年1月まで続きましたので、正に父・忠作の家族に対する最後の贈り物になりました

新居建設

1970年3月日本航空定年退職(60歳):退職時のお別れ会の時に書かれた退職時の色紙を見ると、多くの部下に慕われていたことが分かります
1970年4月、B747の初号機(JA8101)が就航しました。それまでの航空機の2倍以上の大きな航空機の導入により、その後20年間の航空旅客需要の伸びは驚異的となりました。一方、受け入れる航空会社は、客室部門、旅客部門、整備部門、などの現場部門は導入までの数年間、急激な人員増、施設の拡充、などで厳しい対応を迫られました。整備部門はこれに加え、新しい整備方式の導入、これに伴う整備士の教育、などが必要となり、整備の第一線を預かっていた父・忠作の導入までの数年間は大変な業務量であったと思われます

747-100 初号機

1970年5月新日本航空整備株式会社初代社長(代表取締役)に就任。この会社は、前身である伊藤忠航空整備(株)、日本航空(株)、全日空(株)が三分の一づつ出資して作られた会社で、現在迄発展を続けている優良会社に成長をしました
1971年2月27日61歳で波乱万丈の人生を閉じました。葬儀の様子、及び死後に賜った「双光旭日章」などについては、「母・真砂子の生涯」と重複していますので。詳しくはそちらをご覧になって下さい

葬儀の式次第、弔辞、その後の友人たちの追悼文を以下に引用します;
社葬_式次第・弔辞_新日本航空整備(株)社報臨時号より
追悼文(駒林栄太郎・五十嵐正・中西正義・岡部武夫)_航空技術

以上

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