荒井徹・秀子の生きた証し

ー はじめに ー

これまで荒井ファミリーの歴史の中で、父・母の生涯やファミリーのレジェンド達の生涯については纏めてきましたが、荒井徹・秀子の生涯については「空欄」であることに気が付きました。しかし、二人ともいつ何時冥途からお呼びが来ても不思議ではない年齢に達していることに気づき、子供たちが我々の写真や遺品の始末に困らない様に、現在まで二人の辿ってきた歴史、言わば我々の「生きた証し」を日々書き留めておこうと考えました。つまり、我々が二人とも死んだ時点で「荒井徹・秀子の生涯」が完結するという具合です
歴史好きの私としては、歴史に名を刻むほどの人生ではないことは承知の上で、世界史、日本史の中でどう生きて来たかをピン止めすることにより、読者が時代背景を想像するのは悪くはないかと考えた次第です

徹・秀子の歴史

<戦争の時代>
1927年     徹の母・竹田眞砂子は、父母が相次いで死去の後、満州に居住していた兄・竹田一夫の許に渡る
1931年09月   満州事変勃発

1932年03月 満州国建国

*満州国について深く知りたい方は「満州国,その”うたかたの夢”」をご覧になってください

1933年10月   父・荒井忠作 満州航空入社
1937年02月   父・荒井忠作と母・竹田砂子結婚


1937年07月 盧溝橋事件を発端として日中戦争が始まる

1938年08月   
女・悠紀子誕生 ⇒ 1941年7月死去
1941年04月 兄・荒井威雄誕生

1941年12月    真珠湾攻撃 ⇒ 日本はアメリカ、イギリスに対し宣戦布告、以後4年にわたる太平洋戦争が始まる

1944年04月     次女・昭子誕生 ⇒ 1ヶ月足らずで死去
1945年04月 荒井徹誕生(@満州)
生誕から敗戦、長野における引揚者住宅での生活までは生い立ちの記参照


<敗戦後の苦難の時代>

1945年08月 日本の敗戦
1946年07月  荒井一家、満州からの引揚(奉天/現在の瀋陽 ⇒ 葫蘆(ころ)島 ⇒ 舞鶴 ⇒ 長野県長野市父の実家 引揚者住宅@居町

1948年07月 三女・真理子誕生
1950年09月 佐藤秀子誕生(@札幌市南2条西23丁目)
1951年11月   荒井徹、東京都北多摩郡保谷町都営住宅に転居
1952年03月 佐藤秀子、小樽市富岡2丁目6に転居

1952年04月 荒井徹、保谷第二小学校入学


1953年03月 ソ連共産党中央員会書記長・スターリン死去

1954年03月 佐藤秀子、京都市金閣寺近くのアパートに転居

1954年05月 フランスがディエンビエンフーの戦いで北ベトナム人民軍に大敗し、ジュネーブ協定によって最終的にインドシナ半島から撤退。その後、アメリカは南ベトナムへの財政的・軍事的支援を開始した( ⇒ 20年近くに亙るベトナム戦争への米軍の関与に繋がる)

1955年03月 佐藤秀子、京都市左京区下鴨東塚本町に転居 葵幼稚園入園

*初めて飼った雑種犬(コロ)が餌を食べている時に手を出したために眉間を噛まれる
*家のそばの琵琶湖疏水より北側は全て田んぼで、自然豊かなところで蛍狩りもできていた
*北海道拓殖銀行(以下拓銀)京都支店長の家にテレビが入り、行員家族で雨戸を閉めて初めてのテレビ鑑賞


1956年03月  佐藤秀子、札幌市南6条17丁目に転居 美術幼稚園に転園
*社宅のトイレの染付古便器が怖かった。風呂なしだったので、銭湯通い
*母の勧めでバレエを習い始めるが、膝小僧が出てるし下ばかり見ていて素質が見られないと言われ、数ヶ月で辞める

<高度成長時代;徹・秀子の学生時代>
1956年07月 この時発表された経済白書の結語の一節に「もはや戦後ではない」と書かれていた。朝鮮戦争の特需などにより高度成長を遂げ前年のGDPが戦前の水準を超えた
*荒井徹、都営住宅での平和な日々

*徹の小学生時代、兄・威雄と夏休み中に数週間父の実家(長野県長野市北石堂町)でお世話になっていた。近くの裾花川(犀川の支流)で魚取りをしたり、従姉の荒井いづみさんの蔵書をお借りして読書に耽ったりしていた。蔵書の中でもユダヤ人虐殺に関連するヴィクトール・E・フランクルの著作「夜と霧」に大きな衝撃を受けた記憶が残っている
。また、荒井いづみさんの夫である荒井謙治さんは、若いころ画家を志していたこともあり、多くの素晴らしい絵がり、上の絵は、生前いづみさんに頼んで貰ったものです。絵の背景にある山は、裾花川のそばにある旭山だったと記憶しています

1957年04月 佐藤秀子、港区東麻布2丁目に転居。飯倉小学校入学
*映画「ALWAYS三丁目の夕日」の舞台の様な商店街に住み、東京タワー建設予定地の広大な空地を眺めて遊んでいた
*米国人とのハーフの友達の家で初めてアメリカ人を見て恐怖を感じる
1957年08月  佐藤秀子、大田区東雪谷1丁目に転居。小池小学校に転校
*近所でピアノを習い始める(自宅ではオルガンで練習)。ピアノの先生の優雅な洋風生活に憧れを感じた
*兄・貞二が野犬狩りに捕まった犬を「うちの犬だ~」と言って助け出し、家で飼うことになり、「ちび」と名付けて可愛がった
*11月の「七五三」のお祝いは、いやいやながら母に連れられ近くの洗足池神社で行った。
*兄・貞二は野球少年でもあったが、好きな釣りをしによく洗足池に行っていた。ある時この池に落ち、ずぶ濡れになってお巡りさんに連れてこられて帰った時の光景が忘れられない

1958年03月 荒井徹、保谷第二小学校卒業 ⇒ 写真集小学生時代の思い出)、(写真集の中で紹介された校歌

1958年04月 荒井徹、学芸大学付属小金井中学校入学 

*都営住宅での幸せな毎日;

1959年03月 佐藤秀子、世田谷区奥沢4丁目に転居
*庭に卓球台を設置してもらい、よく兄弟で遊んだ
*母・道子は「魚菜学園(自由が丘の料理学校)」で料理を習い始め、当時は珍しいケーキを作りご馳走してくれた。また洋食のテーブルマナーを教わった

1959年12月 佐藤秀子、札幌市南8条15丁目に転居 二条小学校転校
*父・美代吉の札幌への転勤に伴い飛行機で連れてきた「ちび」が、銀行の寮に仮住まい中に行方不明になり、母・道子の懸命の努力にも関わらず見つけることができなかった
*北海道では三学期にスキーの授業があるため、冬休みに「スキー教室」に通わされた。兄のズボンを履きスキーのできる山まで歩かねばならず、転んでは笑われ、また先生には「6
級には程遠いが、それ以下の級はないので6級にします」と言われ、ひどく傷ついた記憶が残っている
*野良犬を拾って物置で飼い始め、「チャク」と名付けた。メスだったので子供を産み、室内で大切に育てていたものの犬の感染症である「ジステンバー」に罹り、全て死なせてしまった
*学校では、音楽と体育が得意(特に卓球、徒競走)となり、初めは苦労したスキーも5年生のころには選手として選ばれるようになった。6年生の学芸会でピアノ伴奏を行ったものの、間違えてしまい自信喪失してしまった
*母・道子はその後の人生の支えとなる書道を本格的に始めることとなった
*札幌YMCAで声楽を習い始める。英語を話す先生夫妻、先生の美しい声、ペチカのある家、家の中で飼っている犬、何もかも憧れの対象となった。一つ年上の娘さんと仲良くなり、英語を教えてもらった。毎年一緒に支笏湖キャンプに行った

1961年03月  荒井徹、学芸大学付属小金井中学校卒業 ⇒ 写真集(中学生時代の思い出)、(校歌/3番のみ)

1961年04月  荒井徹、学芸大学付属高校入学

1962年10月 キューバ危機
*ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚、米国がカリブ海でキューバの海上臨検を実施し、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事。ケネディ大統領とフルシチョフソ連共産党第一書記との話し合いで最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わった

1963年04月  佐藤秀子、札幌市南15条16丁目に転居。伏見中学校入学
*秀子、学校から帰宅後に愛犬「チャク」の死を発見、大きなショックを受けた。庭にお墓を作り葬った
*この頃、兄・浩一は、物置で庭の石を使ってウェイトリフティングをやり、サンドバックを吊ってボクシングの練習をやっていた。兄・貞二は、中学体育連盟の陸上競技の選手になり、秀子は卓球大会で優勝するなど運動では大いに成果を挙げていた

1963年11月 ケネディ大統領暗殺
*徹がこの暗殺の報に接したのは、大学受験準備の為に公開模擬試験を受けに行く当日の朝だった。徹は、当時ケネディ大統領を尊敬していた為、非常に大きなショックを受けた
*ケネディ大統領が、徹を含め多くの若者の心を掴んだのは、類いまれな倫理観に基づいたその政治姿勢であったと思われる
参考:1961年1月の
大統領就任演説、1963年6月のアメリカン大学で行われた平和のための戦略

1963年12月 佐藤秀子、小樽市富岡町2丁目7に転居。西陵中学校に転校
*父・美代吉は取締役・小樽支店長に就任。支店長社宅は小樽港を見下ろせる和風邸宅で、四季折々の美しい花が咲く庭があった。間取りは12部屋にトイレが3ヶ所、風呂は五右衛門風呂、大きな蔵がついていた
*過去に飼っていた犬達が死んだにも拘わらず、秀子が我がままを通してアイヌ犬「北洋」を飼ってもらえることになった
*この中学では2年間同じクラスとなったことから、生涯の親友を作ることができた
*伏見中学での優勝経験から卓球部の助っ人となったが馴染めなかった。一方、合唱部では部長を務め、学芸会では、ピアノ伴奏と声楽を披露するほど音楽に親しんでいたものの、尊敬していた音楽の先生が急逝したため音大に進む夢を失ってしまった
*東京へ行く夢膨らませ、しんしんと雪の降る静けさの中、小樽駅から響いてくる蒸気機関車と港の船の汽笛を聴きながら受験勉強を行った。そのストレスのせいか、12月に入って盲腸炎になり手術を受ける羽目になった

1964年03月 荒井徹、学芸大学付属高校卒業 ⇒ 写真集(高校生時代の思い出
1964年04月 荒井徹、駿台高等予備校入

1964年10月 東京オリンピック
1964 N ̓ ċG I s b N ̌ j t H [ | 東京オリンピック 1964, 東京 オリンピック ポスター, 東京 オリンピック
東京オリンピックの歌

1965年03月 荒井徹、駿台高等予備校卒業
1965年04月 荒井徹、東京大学理科一類入学

*教養学部時代の写真集:(クラスの仲間と)、(釣友会

1966年04月 佐藤秀子、青山学院高等部入学、世田谷区梅ヶ丘の親戚宅に寄宿
*父・美代吉の義兄・蓮井平一さん(美代吉の姉が早世した後、利子夫人と再婚)の梅ヶ丘の邸宅の二階に寄宿。この伯父は拓銀の先輩であり父・美代吉を非常に可愛がってくれた人でもある。利子夫人は学習院出身の上品な方で「ごきげんよう」が似合う人であったこともあり、自分のガサツさが身に沁みた!
*大半が東京出身者で占められていた高等部では、北海道出身ということでコンプレックス感じていたが、軽音楽クラブに入ってからは文化祭でコンサートを企画、演奏したりしていたため羨まれることもあった。この時の経験が、人生後半の生き甲斐となった国際文化交流活動に役立ったことは確かである
1967年3月 佐藤秀子の父・美代吉は、東銀座東急ホテルで「一過性脳虚血」を発症
*以後3ヶ月慈恵医大病院に入院、入院中の検査で、この後の人生に大きな影響を与える腎機能障害が発覚した

1967年04月 荒井徹、東京大学工学部・航空学科進学
1968年03月 佐藤秀子、小金井市緑町4丁目12に転居
*父・佐藤美代吉、拓銀を退職、北海道東北開発公庫理事に転出して苫小牧工業地区の開発担当となり、東京と札幌を行き来する勤務が始まった
1968年10月 佐藤秀子、小金井市緑町4丁目6-25の新築の家に転居
*佐藤家の家族5人は4年振りに一緒に暮らすこととなった

1968年~69年 東大闘争(学部生・大学院生と大学当局の間で、医学部処分問題や大学運営の民主化などの課題を巡り争われた;航空学科の学生の一部もこの闘争に参加し航空学科のビルを封鎖した
荒井徹もこの闘争に加わった。恐らく同世代の学生は、高校までの学校教育の影響を強く受け「社会主義に対する親和性」が高かったこと、またベトナム戦争に触発された「反戦・平和の運動」に加わりたいという意識があったこと、などが政治活動に参画した動機になっていたと思われる
*この闘争中に集会などで参加者全員で歌った歌:(インターナショナル)、(ワルシャワ労働者の歌)、(国際学連の歌
*1968年08月、荒井徹、航空学科卒業旅行:(写真集

1969年01月 徹、駒場寮奪還闘争(当時民青に占拠されていた)に参加し、頭部を負傷し東大闘争から脱落
1969年01月 東京大学・安田講堂に警官隊突入 ⇒ 東大闘争は実質的に終焉 

1969年04月 佐藤秀子、青山学院女子短期大学英米文学部入学

1969年05月 父・忠作、荒井宅を埼玉県新座市あたご3-1-2に新築父、サラリーマンの夢が叶う

1969年06月 荒井徹、東京大学工学部・航空学科卒業
1969年07月 荒井徹、東京大学工学系大学院修士課程(航空学専攻)入学

1970年03月 佐藤秀子、青山学院女子短期大学から米国アリゾナ州立大学に1ヶ月の短期留学

*大学新聞の記者の取材を受け、上の写真の様な記事が載った

1970年03月 大阪万博開催(~9月)

*大阪万博の歌「世界の国からこんにちわ

1970年10月 佐藤秀子、青山学院女子短期大学2年で英語劇ゼミを選択し、青山祭でアメリカの短編劇を上演した
1970年11月  三島事件(防衛庁に押し入り最終的に三島由紀夫は割腹自殺)
1971年02月  父・荒井忠作死去(享年61歳) ⇒ 父・忠作の生涯

1971年04月 佐藤秀子、日本航空入社、東京支店STBカウンターセールス部・八重洲カウンター配属
1971年06月 荒井徹、東京大学工学系大学院修士課程(航空学専攻)卒業
1971年07月 荒井徹、日本航空入社、整備訓練所配属
1972年01月 荒井徹、ライン整備工場第一点検整備課配属 

1972年04月 佐藤秀子、東京支店カウンターセールス部・霞ヶ関ビルカウンター配属
*エピソード:徹の勤務は「日勤(8時~17時)⇒ 半夜勤(14時~22時) ⇒ 夜勤(22時~翌日8時)⇒ 夜勤明けでの休み ⇒ 休日」の5日サイクル、一方秀子の勤務は常日勤「月曜日~金曜日は日勤、土・日は休み」の7日サイクル。二人は徹の5日サイクルの勤務の内、曜日に関係なく半夜勤の勤務日以外デートをしていた!つまり5日の内、4日は会っていたことになる!

1972年04月 秀子、EF(航空会社社員に与えられる無料航空券)が使えるようになり、母・道子を連れて香港・台北・マニラ・グアム旅行
1973年01月 父・美代吉、持病の慢性腎炎が悪化して入院。人工透析が始まったばかりでまだ治療機器が少なく病床順番待ちの間は腹膜環流治療だった

<秀子・子育てに奮闘、徹・猛烈サラリーマンの時代>
1973年6月 荒井徹・佐藤秀子結婚 結婚式の写真集結婚式の動画 
*結婚式会場は神田一ツ橋の学士会館、ここは徹と秀子が初めて出会った場所

1974年1月

1973年04月 秀子、母・眞砂子、妹・真理子と返還されたばかりの沖縄旅行へ。まだ車は右側通行、貨幣はドル、免税でお酒も買えた

1973年10月 一次オイルショック
*第4次中東戦争勃発後、中東の産油国が原油価格を大幅に引き上げたことにより世界経済は大混乱に陥った。日本も物価の急激な上昇により大きな混乱が発生した
1973年01月 パリ和平協定が締結され、ベトナム戦争は終結

1973年11月 徹、ライン整備工場工務課配属
1974年09月 母・眞砂子とハワイ旅行

*ホテルの朝食のパンを母・眞砂子が持ち出したことを徹が咎めたところ不機嫌になり、以後しばらく険悪な状態が続いた。10年以上経った後に母・眞砂子は「あの時はまだ来たばかりの嫁の前で叱られたのに腹が立った」と笑って当時の思い出を語った

1974年09月 小金井三光院にて佐藤家の家族と撮影

1974年10月 秀子、第一子懐妊により日本航空退職

1975年04月 北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させ、米軍はベトナムから撤退した。南ベトナム軍・政府関係の高官及びその家族は、先を争って米軍の艦船、航空機に押しかけ米国への亡命を目指した

Last Viet evacuees by boat from Saigon water front in Saigon as PRG (ベトコン)troops closing in on April 30, 1975. (AP Photo/Matt Franjola)

<子供たちの誕生>
1975年05月 清香誕生
1977年10月 健一郎誕生

1978年03月  徹、成田整備工場工務課配属(成田へ「金帰月来」の勤務
*「金帰月来」とは:月曜日早朝に自宅から出勤 ⇒ 成田の独身寮滞在 ⇒ 金曜日終業後に自宅に帰還する
*工務課時代の業績:運航整備士人員計画にコンピューターシステム導入;国際線整備部門の成田展開計画策定;成田運航整備部門の整備シフト改定(固定シフト化)
1978年05月 成田空港開港

1979年01月 怜志誕生
1979年01月 第二次オイルショック
*イラン革命(パーレヴィー王朝滅亡)により、イラン産原油生産が激減したために石油価格が暴騰し、世界の経済に大きな影響を与えた。日本経済への影響は、第一次オイルショックに学んだ結果それ程大きなものではなかった

1979年06月 徹、整備部配属(自宅からの勤務に復帰
*整備部時代の主たる業務:中長期の航空機整備計画、機材(航空機のこと)会議を主催し、整備計画、乗員(運航・客室)計画、空港の地上要員計画の整合を行う
1981年07月 旧自宅前にて;
*朋子ちゃん(兄・威雄の長女):10歳
*清香:6歳
*健一郎:3歳
*怜志:2歳

1982年04月 秀子、自宅で近所の中学生に英語を教え始める。その後1993年まで続け生徒数は延べ50人ほどになった。一部の元来優秀な子以外はほとんどが高校受験もままならない生徒たちだったが、それなりに役目を果たしてあげられたかと思う
1983年10月 子供達と初めての海外旅行。カリフォルニアのLinda(秀子の高校時代、佐藤家にホームステイがきっかけで友人となった)を訪問、ナッツベリーファーム、ディズニーランド、サンディエゴのシーパークなどLindaの子供達と楽しく過ごす

1983年10月 徹、羽田整備工場工務課配属
*重整備(10日~数ヶ月にわたる大きな整備)計画と重整備に必要となる引当機計画を、機材計画・乗員計画、空港地上要員計画を調整し策定する
*下記 JAL123便事故に伴う諸作業に1年以上忙殺された。また、下記事故調査報告書にある通り、ボーイング社による修理ミスを見抜けなかったJAL整備陣の一員としての自戒の念はその後長期間続いた。参考:事故原因に関わる徹のブログ「航空機の発達と規制の歴史」参照
1985年08月 JAL123便墜落事故

*事故調査委員会による事故調査報告書の解説

1986年06月 徹、成田整備工場企画グループ課長就任(昇格成田へ「金帰月来」の勤務
1988年03月 徹、整備企画室整備計画部 整備計画グループ課長就任自宅からの勤務に復帰

1988年03月 徹の母・荒井砂子死去(享年72歳)⇒ 母・眞砂子の生涯
*亡くなる1年前の母と徹の写真:

1988年10月 秀子の父・佐藤美代吉死去(享年75歳)⇒ (父・美代吉の生涯 ← 近日中に作成予定

1989年、アフガニスタン紛争 (1978年~)終結
*ブレジネフ政権時代から始まった長期間にわたる侵攻となったが、ソ連は山間地区での消耗戦を強いられ戦死者は1万5千人以上(アフガニスタン2百万人以上)に達し、その後のソ連崩壊のきっかけとなった
*1990年以降、日本国として政府専用機の導入プロジェクトが開始された。徹は整備企画室の立場でこのプロジェクトに関わったが、妹の真理子も財務部で防衛庁との交渉を行っていた。1992年、無事747-400による政府専用機の運用が始まった

1989年02月 秀子、母・道子、子供たちを連れてカリフォルニアの友人Lindaを訪問

1990年01月 バブル景気の崩壊
*資産価格の著しい低下(資産デフレ)により企業の経営状況が悪化(バランスシートの悪化)した。この結果、過剰な融資を行っている金融機関の内、不良債権隠しや先送りを行っていた証券会社や銀行は経営の危機に瀕することになった
*1997年11月3日・三洋証券破綻、11月17日・北海道拓殖銀行破綻、11月24日・山一證券破綻した ⇒「社長会見

1990年08月 秀子、母・道子、健一郎、怜志を連れて欧州旅行
*経由地:パリ⇒ベルリン⇒デュッセルドルフ(友人と会う)⇒ケルン⇒コブレンツ⇒フランクフルト

1990年08月 徹、GLP(Global Leadership Program)という5週間にわたる経営学履修コースに参加
*このコースの目的:国際企業に所属する役員、部長クラスの人(徹はこの時点でまだその地位になっていなかった!)をグローバル人材に育てる教育・訓練を行う
*上記目的を果たすため、日本・米国・及び欧州の先進国から均等に参加者を選び、使用言語は英語とした
*教授陣は国際経営にに関わる一流の人材を集めた(GLP教授陣
*この教育・訓練に関し、会社がGLP本部に支払った金額は5万5千ドル、当時の為替レートを適用すれば、日本円で約800万円に相当する
*参加者には一か月ほど前に事前学習の為の膨大な資料が送られてきた。この資料を読み込む為に、課長業務は午前中のみで済ませ、午後はこの事前資料を読み込むことに没頭した ⇒ 結果として自慢だった視力は極端に低下してしまった!
*5週間のコースは、「国際経営の為の基礎知識の習得」、「野外訓練等による国際人として必要な人格の形成」、「ソ連、インド(2チーム)、中国、ブラジルの5チームに分かれて、その国に出かけ、要人に面会した上で参入する企業の選択、戦略の立案などの模擬研究を行う」、「チーム毎に研究発表を行う
*追加説明 ⇒ (GLPのプログラム概要)、徹の所属した「INDIA_B」チームの(Final Presentation

1990年10月 東西ドイツ統一
*1989年11月9日の東・西ドイツの若者が中心で実行されたベルリンの壁の崩壊がきっかけとなった。右写真は、ブランデンブルグ門の前のベルリンの壁に昇った東・西ドイツの若者達

1990年12月 徹、経営企画室・機材グループ課長(兼)基礎技術部担当課長就任
*経営企画室時代の業務:路線便数計画に合わせた機材計画(航空機の購入・退役計画)の立案
*経営企画室時代の主たる業績:日本経済の長期低迷に合わせ、747-400の購入計画の大量キャンセル、777-300の大量導入、767の増機(但し、エンジン型式の変更/P&W社製 ⇒ GE社製)、737-400の新規導入(←国内線の小型化)
1991年8月 バルト三国独立宣言

1991年10月 徹・秀子、自宅を新築

*父・忠作がサラリーマン人生の集大成として新築した殖産住宅の木造建築は、未だ22年しか経ってなく十分使用に耐えるものだったが、3人の子供が思春期に達する年頃となり、一人一部屋を確保してあげたいという親心と、徹・秀子の夢(広い居間、使いやすいキッチン、屋上菜園、二階にジェットバスとサウナ、など)を実現する為には新築する必要があった

しかし父の建てた家が解体用特殊車両で無残に壊されていく時は、流石に万感胸に迫る思いが迫ってきた

1991年末 ソ連邦の崩壊

1991年12月 徹、経営企画室・グループ次長(兼)基礎技術部担当次長就任(昇格
1992年06月 徹、経営企画室機材・機材生産グループ次長(組織改正)

1993年08月 秀子、新座少年少女合唱団欧州ツアーに同行。フィンランド、ハンガリー、エストニア訪問。これが後のエストニアとの文化交流に関わるきっかけとなる
*1993年08月 新座少年少女合唱団のエストニアでの公演(動画
1994年04月 秀子、KDDジャパンダイレクト(国際通話サービス)の電話オペレーター(4日/週)を始めた。電子メールがまだ一般的で無かった時代、直接電話できない人やコレクトコール(電話を受けた側が通話料を負担する仕組み)のための電話サービスで、業務内容は、50分通話作業+20分休憩を一日4サイクル実施、世界中から途切れることなく電話が入って来て息つく暇もない仕事だったが面白かった

1994年06月 徹、日本アジア航空株式会社(以下「JAA」と表記)台湾支社管理部長就任(昇格単身赴任
*台湾支社時代の業績:間接業務のIT化推進、台湾人客室乗務員の二重課税問題への取組
*二重課税問題とは:JAA設立時には日本・台湾間に「租税条約」が無かったため、台湾人客室乗務員の所得税は日本と台湾で二重に課税されており、日本での課税分は会社が納めていた。その後「租税条約」が成立したあと、日本での課税分はJAA社に還付された。この事実を知った客室乗務員は、還付された租税分は客室乗務員本人に還付されるべきだと主張し、裁判となった。徹の任期中は結審しなかったが、後任の時代に客室乗務員側に譲歩することで解決が図られた
*秀子、在任中(~1996年11月)計9回訪台

1994年10月 愛犬「潤くん」我家に迎える
1994年11月 健一郎バイクの重大事故で頸椎を骨折し一か月近く入院した。友人の同乗者も骨盤骨折の大怪我を負った
*日曜日の朝、秀子はKDD(アルバイト先)に出勤するとすぐに上司に呼ばれ、「息子さんが事故で浦和の病院に入院したと連絡があったので、すぐに行きなさい」と言われ、京浜東北線に飛び乗って北浦和の浦和市立病院へ。状況が掴めず頭の整理もできないまま、道中まるでドラマのようだと、どうしよう、どうしようと思うばかり、ただただ電車に揺られていた。病院に到着して顔を見た瞬間、生きていた!と心底ホッとした。「同乗者の方が深刻ですよ」と言われ、謝罪に病室へ。あとは何が何やら。ともかく専門医がいないので、明日来てくださいと言われて一旦家に戻ったものの、みるみる顔と頭が腫れてきて、恐ろしい状態に。折しも、徹は台湾での仕事に就いて数ヶ月目という状態、すぐには戻れないと言う。心細さに耐え、翌日整形外科医の診断を受けに再び浦和市立病院へ。レントゲンの結果「第4頚椎骨折、直ちに入院が必要。あと1ミリで全身麻痺だったよ」の言葉に、目の前が真っ暗になる思いがした。そこから絶対安静から始まった入院生活は1ヶ月、退院後もしばらくは頚椎カラー(コルセット)を装着していた
*同乗者のご両親の計らいで、保険の手続きをしていただけたが、秀子にとっては全く経験もないことで、どうして良いやらわからず、今考えるとただただオロオロしていたのだと、恥ずかしく思う。退院後、同乗者のご両親のところへ一緒に謝罪に。父君の難しい表情はいまだに記憶に残っている
*家庭裁判所では未熟な若者の無理な運転ということで道路交通法上の事件としては終わりを遂げた。それにしても、当時は本当に世間知らずで、自力で判断もできない人間であったとつくづく思い知らされた

1995年01月 阪神淡路大震災(死者数:4571名)
1995年07月 秀子、エストニアの少女合唱団Ellerhein(エレルヘイン;1993年の新座少年少女合唱団エストニア訪問の受け入れ先)来日ツアーを全国の合唱団の協力を得て企画実行。家族の迷惑も顧みない無謀な文化交流者の始まり
1997年04月 秀子、KDDとの契約が終了。同月、(株)エス・コミュニケーションズで翻訳・外国語プロモーションビデオ作成等の仕事に転職

1996年12月 徹経営企画室B737新会社設立準備室長就任(東京勤務に復帰
*新会社設立の理由:経営企画室時代に採算が合わないとして737-400の導入を反対したものの、国内営業担当役員の強い希望(JALが国内線のローカル線に進出したため)から導入が決まった。しかし、B737-400投入路線の赤字が経営上無視できなくなり、B737-400路線のみを運航する新会社を設立することになった
1997年07月 秀子、日本・エストニア友好協京支部設立

1997年04月 徹JALエクスプレス社(JEX)設立、代表取締役常務就任
*運航コスト削減の為に行った改革:外人パイロットの採用(←給与削減)、プロパーの客室乗務員(スカイキャスト)の採用(←給与削減)、運航・客室乗務員の勤務時間の延長(←人員効率の向上)
1998年04月 JEX本社大阪移転に伴い、徹、大阪赴任単身赴任
1998年07月 JALエクスプレス便・初就航

1999年04月 清香、本田技研工業(株)入社
*秀子、深夜清香を入間にある入社研修宿泊先に送った帰り、居眠り運転の若者の車に正面衝突されるが、軽症で済んだ。この時、担当医師から高血圧を指摘される。徹は「あなたは奥さんを殺す気か?」と脅された
1999年05月 徹整備企画部長就任(東京勤務に復帰
*整備企画部での業績:整備部門にカンパニー制の導入
*カンパニー制とは:「カンパニー制とは」、「整備カンパニーの戦略

2000年04月 徹整備本部副本部長昇格)兼、成田整備事業部長就任
2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ事件発生;

<事件の経過>

*午前88時46分(東部夏時間)に、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンのワールドトレードセンター(WTC)の北塔(WTC1)に、アメリカン航空11便が突入
*午前9時3分に、ユナイテッド航空175便が南塔(WTC2)に突入
*午前9時37分に、アメリカ軍のペンタゴン本部にアメリカン航空77便が突入
*午前10時3分に、ユナイテッド航空93便がペンシルベニア州シャンクスビル近くの農地に墜落(乗客がテロリストに立ち向かったため、目的地であるワシントンD.C.への攻撃を防いだ)
<テロリストグループ>
*アフガニスタンを拠点とする過激派イスラム組織「アルカイダ」が実行(
指導者のウサマ・ビン・ラディンは、アメリカ政府による報復攻撃で2001年5月に死亡
<犠牲者と被害>
死者2,977人(内、246人が4機の航空機に搭乗していた乗員・乗客、19人がテロリスト、411人が救助活動に従事していた消防士、72人が警察官
*WTCのビルは完全に崩壊し、周辺の建物も大きな被害を受けた

2002年06月 徹本航空退社
2002年06月 徹ジャル航空機整備東京 代表取締役社長就任
*ジャル航空機整備東京時代の業績:認定事業場の資格取得
*任期中(2002年~2005)に会社の新聞に載せた「新年号の巻頭言
*年始式の挨拶:「2003年を迎えて」、「2005年を迎えて
*下の写真は、毎年数回に分けて行われていた「新入社員の御巣鷹山慰霊登山」時の集合写真。新入社員はこの登山によって整備士としての責任を実感することになったと思われる;

<孫たちの誕生;秀子・子育てから解放され自由人へ;徹・培ってきた経験を外で生かす時代>

2003年01月 服部光洋・荒井清香結婚式 ⇒ 結婚式の動画

2003年09月 徹独立行政法人・原子力安全基盤機構・監事就任
*原子力安全基盤機構での業績:航空安全にかかわる知識を、原子力規制の参考として提供
東日本大震災(2011年9月11日)における福島原子力発電所の事故を原子力規制の中枢で体験

2005年01月 秀子、軽度の脳梗塞を発症し1ヶ月入院 エス・コミュニケーションズ退職
*清香(結婚)、健一郎(NYC留学中)、怜志(独立)はすでに家を出ていたので、秀子入院中の潤くんの世話は徹が引き受けていた。仕事と病院通いとで多忙を極めた
2005年06月 徹ジャル航空機整備東京社長退任 ⇒ 顧問就任
2005年06月 秀子、共進商事(株)にバルト三国デスク開設してもらう。フィンランド航空のバルト三国広報宣伝などの手伝いをする
2005年09月 秀子、エストニアのタリンフィル室内管弦楽団来日公演企画運営を行った
*1月に脳梗塞を患ったばかりの時期であった為、家族・親戚が全面的にサポート実施
*新宿オペラシティ、河口湖、鎌倉建長寺で公演を行った

2006年10月 服部明良君、ポッポの森運動会(動画
2007年01月 服部明良君と潤君(動画
2007年02月 愛犬・潤くん没 (享年12歳6ヶ月)

2007年04月 徹ジャル航空機整備東京・退社
2007年04月 徹・秀子、母・道子、服部ファミリーと伊豆・大島旅行(動画

2007年10月 徹、日本航空定年退職に伴うご褒美!となっている夫婦での卒業旅行に出かける:「旅行中の写真
*ご褒美!の内容:日本航空の路線を使用する時は無料、且つ First class 席の予約が可能
*旅行先:ハンガリー、オーストリア、ドイツ

2008年09月 母・道子脳梗塞で左半身不随となる

2009年08月 徹、桜美林大学・特任教授就任
講義内容:エアラインの営業戦略、エアラインの乗員(パイロット)養成・乗員計画、エアラインの整備ビジネス
*講義内容を整理したものは以下のブログに纏めてあります:「エアライン・ビジネスについて」、「航空機の安全運航を守る仕組み

2009年08月 秀子、エストニアの少女合唱団・Ellerheinの2回目の来日ツアー企画実施

*仙台、湯沢(秋田県)、奥会津、東京、大阪、和歌山、広島(平和記念式典参列)で公演
*東京(杉並公会堂)には美智子皇后(当時)陛下がご臨席。宮内庁、皇宮警察、杉並警察署等、準備の周到さに驚愕。皇后陛下と指揮者との再会、会談など楽屋で行われ、身近で美智子様に拝謁、役得!を喜ぶ
*母・道子も車いすで鑑賞でき、多少の親孝行ができた感があった

*エストニア大使館での(演奏

2010年04月 徹、独立行政法人・原子力安全基盤機構・監事としての定年に伴い「顧問」就任

2010年   秀子、日本・エストニア友好協会本部事務局長就任
2010年05月 秀子の母・道子死去(享年89歳) ⇒(母・佐藤道子の思い出
2010年10月 秀子還暦祝@伊香保温泉(動画
2010年12月 服部ファミリーと年末スキー@菅平スキー場(動画

2011年03月 東日本大震災(死者数:15,844名、行方不明者: 3,394名)

2011年10月 服部明良君・昇吾君の運動会(動画
2011年11月 荒井咲花(えみな)ちゃんのお宮参り(動画
2011年12月 服部ファミリーと年末スキー@岩原スキー場(動画
2012年12月 荒井健一郎・小川江里香結婚式 ⇒  結婚式の動画

2013年03月 荒井健一郎、(合同会社)シティライツフィルムス設立し代表を務める。顧客の依頼に基づき「映像撮影、編集」を行っています

2015年08月 服部清香、上海事業所に家族帯同で赴任(~2019年2月)

2014年01月 荒井怜志、(株)ワンノート設立、代表取締役就任。業務内容については 「履歴事項全部証明書」参照

2014年03月 徹、独立行政法人・原子力安全基盤機構が原子力規制庁に統合されたことに伴い退任
2015年05月 徹、荒井咲花さんが歌う「じいじ70歳おめでとう(作詞・作曲 by 荒井健一郎)」

2015年08月 徹・秀子、中国への歴史旅
*上海に赴任していた服部清香を頼り、予てより調査したいと考えていた「大連旅順長春瀋陽」の各都市と;「徹が生まれた瀋陽の住居跡」、満州からの引揚の際中国からの出発地となった「葫蘆島」を訪ねた
*写真のスライドショー、動画は以下を参照:「大連の旅」、「旅順の旅」、「長春の旅」、「瀋陽の旅(徹の生誕地を含む)」、「葫蘆島の旅

2016年03月 徹、桜美林大学・特任教授、定年に伴い退任

2017年12月 秀子、エストニア外務省から感謝状贈られる

<徹&秀子・悠々自適の生活;孫たちの成長を喜ぶ生活>
2018年04月 服部明良君、栄東(さかえひがし)中学校入
2018年09月 秀子、エストニア大使館からの依頼でエストニア発祥のグローバルごみ拾い運動 WORLD CLEANUP DAYを日本に広める活動を開始

2019年03月 清香、上海から帰任(家族は1年前に帰国)
2019年04月 近藤真理子(徹の妹)、肺がんにより死去(享年70歳)
*真理子は、後半生友人とシャンソンを歌うのを楽しんでいました⇒(2006年12月_真理子シャンソン発表会)、(2007年5月 魅惑のシャンソン 真理子)、(2009年7月 パリ祭を迎えて・シャンソン演奏会)、(2010年4月 近藤真理子シャンソンを唄う

2020年2月 新型コロナウイルス感染拡大  ⇒4月緊急事態宣言発令
*怜志、新座の自宅にてリモートワーク開始
2022年01月 秀子、ごみ拾い活動をNPO法人WORLD CLEANUP DAY JAPANとして法人化、副代表理事に就任
2022年04月 服部昇吾君、聖徳学園中学入学
2023年04月 清香、フィリピンへ単身赴任、ホンダフィリピン(現地法人)社長就任昇格
2023年06月 荒井和子(徹の兄・威雄の妻)、パーキンソン病により死去(享年77歳)、戒名:薫風和景信女
*和子さんは、後半生俳句や墨絵を趣味にしていました。これらの作品の内、本人が秀作を選び、「(さえずり)」という句集に纏めています

2023年08月 佐藤浩一(秀子の兄)、心臓発作により死去(享年77歳)


2023年11月 清香、ビジネス誌に載る

2024年04月 服部明良君、明治大学商学部入学 ⇒ 徹の大好きな「明治大学校歌
2024年04月 荒井咲花さん、青山学院中等部入学

2025年04月 清香、ホンダベトナム社長就任
2025年04月02日、徹、傘寿の祝い「じいじ80歳おめでとう(作詞・作曲・演奏 by 荒井健一郎)、歌 by 健一郎&咲花」

2025年8月28日 荒井威雄、多発性骨髄腫により死去(享年84歳)、戒名:博学威徳信士
2025年12月28日 秀子の次兄・貞二、すい臓がんにより死去(享年77歳)、戒名:大光院無双貞徳居士
*2026年1月6日、通夜
*2026年1月7日、葬儀・告別式

スポーツ界、空手道界(剛柔流)で活躍していた故人に相応しく会葬者は300名以上(推定)、多くの著名な方々から献花が行われました

70歳で全ての職を離れてから、同居している次男・怜志に勧められて始めたブログは、引き続き投稿を継続しています;
退職サラリーマンの遠吠え(PW無し)
Family Story(PW:manchuria

荒井ファミリーのレジェンド達の足跡

 荒井ファミリーのレジェンド達の足跡ー

ー 荒井彦太郎、竹田一夫に関わる荒井ファミリーの系図 ー
(兄・荒井威雄作成の系図を使用)


ー 荒井彦太郎の足跡 ー

① 荒井彦太郎が生きた時代(1860年/万延元年~1928年/昭和3年)
<幕末・激動の時代>
@ 1853年:ペリー来航(←日本との通商開始を迫った)
@ 1857年:吉田松陰による松下村塾の開塾(⇒ 勤王の志士、明治の元勲育成)
@ 1858年:日米修好通商条約調印(主役は井伊直弼)
@ 1858年:安政の大獄(井伊直弼により吉田松陰を含め多数の勤王派を粛清)
@ 1860年:3月3日、桜田門外の変(水戸浪士を中心とする井勤王派が伊直弼を暗殺)
@ 1860年:3月20日、荒井彦太郎生誕
* 1862年:朝ドラで話題の牧野富太郎生誕
@ 1862年:皇女・和宮が第14代将軍・徳川家茂と結婚(⇒ 竹田佐久代の嫁ぎ先である土屋家は、和田峠で降嫁行列の宿舎を提供した)

@ 1863年:薩英戦争(薩摩軍は英国軍に敗退、西欧列強諸国の強さを知る
@ 1864年:京都・池田屋事件(勤王の志士が多数殺害された)
@ 1864年:蛤御門(はまぐりごもん)の変(長州郡が京都に攻め込み敗北した)
@ 1864年:下関砲撃事件(長州は米・英・仏・蘭の連合艦隊に敗退、西欧列強諸国の強さを知る
@ 1866年:薩長同盟成立(薩摩・長州は討幕の主役となる)
@ 1867年:討幕の密勅(岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛)
@ 1867年:徳川慶喜による大政奉還と王政復古の大号令
@ 1868年:鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まる(全国で戦争が行われ、1969年5月函館戦争で終結した)
@ 1868年:五箇条の御誓文 :江戸を東京と改称し、年号を明治とした — 荒井彦太郎8歳

<明治新政府による矢継ぎ早の改革>
@ 1869年:東京に遷都;版籍奉還(中央集権政治の開始)
@ 1871年:郵便制度開始;廃藩置県
@ 1872年:学制公布(⇒ 全国を8つの大学区に分け、各学区に大学校、中学校、小学校を1校ずつ設置);新橋・横浜間に鉄道開通
@ 1873年:徴兵令地租改正条例(←全国同じ基準で、貨幣で税を徴収する仕組み) —荒井 彦太郎13
@ 1876年:廃刀令(⇒ 武士の特権/誇りが最終的に失われた)
@ 1877年:西南戦争(士族の最後の反乱;明治維新の功臣・西郷隆盛が自害)
@ 1889年:大日本帝国憲法の発布 — 荒井彦太郎29歳
@ 1890年:大日本帝国憲法の発布;第一回衆議院議員総選挙;第一回帝国議会

<近代国家としての歩み ⇒ 戦争の時代へ>
@ 1894年:日清戦争(戦死者/1,415人、病死者/11,894人) — 荒井彦太郎34歳
@ 1895年:下関条約(下関の「春帆楼」で行われたた日清戦争の戦後処理:朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖列島の日本への割譲、清から日本への賠償金支払い、など;三国干渉により遼東半島は返還
@ 1902年:日英同盟締結
@ 1904年~1905年:日露戦争(戦死者/約84,000人 — 荒井彦太郎44歳
@ 1905年:ポーツマス条約(北緯50度以南の樺太を日本に譲渡、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲渡、ロシア沿岸の漁業権を日本に譲渡)@ 1909年:荒井忠作生誕(12月17日)
@ 1911年:明治45年 ⇒ 大正元年 — 荒井彦太郎51歳
@ 1911年:関税自主権を回復(真の独立国家となった;外務大臣・小村寿太郎)
@ 1911年:辛亥革命 ⇒ 清国が滅亡し中華民国の建国(1912年1月1日、孫文が臨時大統領就任)
@ 1914年:サラエボ事件(オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナンド大公とその妻ゾフィーが、セルビアの秘密結社「黒手組」のメンバーであるガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件 ⇒ 第一次世界大戦のきっかけとなった)
@ 1914年~1918年:第一次世界大戦

War cemetery north east of Verdun in France commemorating those who died during the Battle of Verdun in 1916. The building behind the cemetery is the Ossuary of Douaumont containing the skeletal remains of at least 130,000 unidentified soldiers.

@ 1914年:対華二十一か条の要求(中国民衆の反感を買った)
@ 1919年:パリ講和会議(日本は戦勝国側となり、以後列強の一つと数えられるようになった)⇒ ベルサイユ条約
@ 1920年:国際連盟設立(日本は英・仏・伊と並び常任理事国となった)
@ 1922年:ソビエト社会主義共和国連邦の誕生
@ 1923年:9月1日、関東大震災
@ 1926年:大正15年 ⇒ 昭和元年
1928年:10月25日、荒井彦太郎逝去(享年68歳)

② 国会図書館に残っている荒井彦太郎の足跡概観
国会図書館には、日本橋の東洋堂という出版社から1889年~1916年までの27年間に発行された「風俗画報」518冊が所蔵されています。この風俗画報発刊の目的については、その編集者の趣意書で以下の様に述べられています

「風俗 画報 」発 刊 主 意

風俗画報は、専絵画を応用して台閣(行政府)、都・鄙村落に論なく衣服器財の現象、冠婚葬祭の様式、神社の祭典、仏寺の行法、古来風俗の今に存するもの旧典古礼の猶行はるもの、殿堂屋宇建設の規模、舟・車・橋梁制作の模形、有名男女の肖像、歌舞音楽の姿態、会衆遊宴、平居操作の状況等、凡人事 百般貴賎公私の別なく喜怒哀楽の状 一116一 に至る迄、眼前に見る所の風俗を網羅集載し、以て後世に伝え、歴史・工芸・其他諸科の考証及研究の用に供せんとす。是を再言すれば、即画を以て一の私史を編纂するの料を作るに異らざるなり。凡絵画の用は観美快楽の資に充つるに止らず、文の悉くすこと能はざるもの図画を待ちて之を後世に伝ふべき者にして、画は文の形文は画の声なり、二者相得て以て今尚昔を見ることを得るに至る而して後の今を見るも亦今の昔を見るに異らならざる也。試みに維新以降今日に至るまでの間を回想すれば、欧米新事物の輸入と共に旧態大卒消滅して僅に二十余年の間其痕跡を止むるもの幾許そや。唯一の浮世絵ありて僅に其一斑を窺ふに足るのみ。是時世の劇変に遇ふに因ると錐も又形を以て伝ふるもの無きが為なり。乃ち画報一たび世に出で其形を印象し、其声を文章 にするときは、千百年の後歴々既往現今の状勢を知時世変遷のを原ぬることを得、政事学芸に稗益すること応に鮮少にあらざるべし。敢て請ふ同感の君子・貴女此挙を賛成し、併せて紙上に掲載すべき確実の材料を寄贈せられん ことを
                                                 風俗画報編者謹 白

要は、明治維新以降、急激に変化していく生活様式、世相、風俗、ETCを絵や文章を使って分かりやすく説明し、そのレガシーを後世に残していくことと言えます

*荒井彦太郎が生きた時代は、明治維新以降先進国と肩を並べるために矢継ぎ早に行われた大胆な国内改革、そして国内体制が整った後一気に対外戦争に乗り出し、欧米列強に伍する強国にのし上がった激動の時代でした。その過程で、恐らく市民生活は多くの変革を迫られたものと思われます。幸いにも、日本人はこうした激動の時代にあっても古い伝統の大切な部分を残し、現代にいたるまでそのレガシーを受け継いでいます。荒井彦太郎はこの「風俗画報」に以下の4編の文章を残しています。いずれも達意の素晴らしい文章でこのレガシー継承の担い手として活躍していたことは、我々荒井ファミリーにとっての誇りといえるのではないでしょうか

a.長野町の歳末年始_1894年風俗画報_65(彦太郎34才の頃)

b.善光寺前立本尊_1894年風俗画報_72(彦太郎34才の頃)

<参考> 前立本尊とは;
善光寺の御本尊は住職ですら絶対に見ることができない秘仏とされています。その御本尊を模したといわれるものが「前立本尊」です。一つの光背のなか、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、独特のお姿をされています
普段は御宝庫に安置されているその前立本尊(下の右の写真)を、数え年で7年に一度、本堂にお迎えして行われるのが「善光寺前立本尊御開帳」です。御開帳の期間中は、本堂前に高さ約10メートルの回向柱(えこうばしら;下の左の写真)が建立され、本堂内の前立本尊と「善の綱」で結ばれます。そのため、回向柱にふれると前立本尊にふれるのと同じ功徳が得られるとされ、柱付近は毎回、参拝者で賑わいます
c.長野町の婚礼_1894年風俗画報増刊_75(彦太郎34才の頃)

d.荒井彦太郎_刈萱山西光寺_1901年風俗画報_230(彦太郎41才の頃)
<参考> 刈萱山西光寺は現存しており、この説明はウイキペディアにも載っています


ー 竹田一夫の足跡 ー
① 竹田一夫が生きた時代(1895年/明治28年~1976年/昭和51年)
<近代国家としての歩み ⇒ 戦争の時代へ>
@ 1895年:下関条約(日清戦争の戦後処理)締結
@1895年:12月9日、竹田一夫生誕
@ 1902年:日英同盟締結
@ 1904年~1905年:日露戦争(⇒ 日本人の戦死者:約84,000人 
@ 1905年:ポーツマス条約(北緯50度以南の樺太を日本に譲渡、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲渡、ロシア沿岸の漁業権を日本に譲渡)
@ 1911年:明治45年 ⇒ 大正元年 — 竹田一夫16歳
@ 1911年:関税自主権を回復(真の独立国家となった;外務大臣・小村寿太郎)
@ 1911年:辛亥革命 ⇒ 清国が滅亡し中華民国の建国(1912年1月1日、孫文が臨時大統領)
@ 1914年:サラエボ事件(オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公とその妻ゾフィーが、セルビアの秘密結社「黒手組」のメンバーであるガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件 ⇒ 第一次世界大戦のきっかけとなった)
@ 1914年~1918年:第一次世界大戦 
@ 1914年:対華二十一か条の要求(中国民衆の反感を買った)
@ 1914年:竹田真砂子生誕(11月22日)
@ 1916年:竹田一夫(21歳)、長野師範学校卒業 ⇒ 長野県南安曇郡豊科小学校の訓導(旧制度における教員)
@ 1919年:パリ講和会議⇒ ベルサイユ条約(日本は戦勝国側となり、以後列強の仲間入りをした)
@ 1919年:竹田一夫(24歳)、長野県上伊那郡朝日小学校の訓導
@ 1920年:国際連盟設立(日本は英・仏・伊と並び常任理事国となった)
@ 1921年:竹田一夫(26歳)南満州鉄道(株)出向 ⇒ 撫順市永安台小学校
の訓導
@ 1922年:ソビエト社会主義共和国連邦の誕生
@ 1923年:9月1日、関東大震災
@ 1926年:大正15年 ⇒ 昭和元年 — 竹田一夫(31歳)、
理科教授法研究のため半年間内地留学
@ 1926年:竹田一夫、撫順第二小学校・満州教育専門学校付属小学校・遼陽小学校の訓導
@ 1927年:両親(竹田一枝・志やう)が相次いで死去 ⇒ 竹田眞砂子(12歳)は竹田一夫の住む満州へ

<軍国主義への傾斜>
@ 1929年:世界恐慌
@ 1930年:ロンドン海軍軍縮会議
@ 1931年:竹田一夫(36歳)、奉天千代田小学校の訓導
@ 1931年:満州事変(満州のほぼ全域を占領してしまう)
@ 1932年:満州国建国(⇒ 日本が国際的に孤立)— 竹田一夫(37歳)
@ 1932年:5.15事件(海軍青年将校による反乱、犬養毅首相の殺害)
@ 1933年:国際連盟脱退(リットン調査団の報告の採択を巡って国際連盟脱退(松岡洋右の演説
1933年:荒井忠作(23歳)、満州航空に入社
@ 1935年:竹田一夫(40歳)、遼陽小学校・遼陽青年学校の校長
@ 1936年:2.26事件(陸軍の青年将校による反乱 ⇒ 高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、 渡辺錠太郎陸軍教育総監、等を殺害 ⇒ 以降、言論の封殺・軍部の専横強まる)
@ 1937年:7月/盧溝橋事件 ⇒ 日中戦争(~1945年)
@ 1937年:11月/南京事件(多くの中国軍人、市民が殺害された)
@ 1937年:竹田一夫(42歳)連山関小学校・奉天弥生青年学校・本渓湖青年学校の校長
@ 1938年:国家総動員法成立(国家総力戦の始まり)
@ 1938年:荒井忠作・(竹田)真砂子結婚
@ 1939年:第二次世界大戦(欧州戦線の開戦)勃発
@ 1940年:日独伊三国同盟成立(枢軸国として米英を中心とする連合国と対峙することとなった)
@ 1941年:日ソ中立条約締結(4月)
1941年:真珠湾攻撃(12月8日)⇒ 太平洋戦争開戦(~1945年8月15日)

@ 1945年:3月10日/東京大空襲 ⇒ 4月/米軍沖縄上陸 ⇒ 5月ドイツ降伏 ⇒ 8月6日/広島原爆投下 ⇒ 8月8日/ソ連対日宣戦布告 ⇒ 8月9日/長崎原爆投下⇒ 8月15日/ポツダム宣言受諾・太平洋戦争終結 9月2日/ミズーリ号上での降伏文書調印
@ 1946年:満州からの引揚

<廃墟となった日本の再建 ⇒ 高度経済成長>

@ 1947年:日本国憲法施行(5月3日)
@ 1950年:朝鮮戦争勃発(~1953年休戦協定成立)
@ 1951年:サンフランシスコ平和条約締結(⇒ 連合国による占領が終結、日本は主権回復;日米安全保障条約締結)
@ 1954年:自衛隊設置
@ 1960年:ベトナム戦争(~1975年)
@ 1962年:キューバ危機(10月)
@ 1964年:東海道新幹線開業(10月1日)⇒東京オリンピック開催(10月10日)
@ 1969年:アポロ11号が人類初の月面着陸(7月)
@ 1970年:日本初の人工衛星「おおすみ」打ち上げ(2月)
@ 1970年:日本万国博覧会(大阪万博)開催(3月~9月)
@ 1972年:札幌オリンピック開催(2月)⇒ あさま山荘事件(2月)⇒ 沖縄返還(5月15日)⇒ 日中国交回復(9月)
@ 1973年:第一次オイルショック
@ 1975年:沖縄海洋博開催(~1976)
@ 1976年:7月16日、竹田一夫逝去(享年82歳)
@ 1978年:第二次オイルショック ⇒成田空港開港(5月)⇒ 日中平和友好条約を締結(8月)

② 竹田一夫の足跡概観
*竹田一夫の人生は、教員を目指して師範学校を卒業したのち、長野県内での訓導(教員)を4年ほど勤めた後、満州に於ける軍事を除く行政全般に関わる植民地経営を行っていた満鉄(南満州鉄道株式会社)に出向して青少年の教育に全身全霊で打ち込んでいました。また両親が亡くなった後に残された弟・妹(眞砂子)、等を満州に引き取り、彼らが自立するまでの親代わりを全力で努めていました。我々荒井ファミリーにとって、正に戦前・戦中・戦後の目標となるレジェンドの一人であることは言うまでもありません
*満州に於ける青少年の教育に関しては、満州事変を主導した石原莞爾が目指した「五属協和」、「王道楽土」の理想(詳しく知りたい方は私のブログ:「満州国」その”うたかたの夢”をご覧ください)及び、満州経営の基本になる広大な満州の農地開拓を目指す「農本主義」を青少年に植え付けようとしたのではないかと思われます。ただ結果として、多くの若い兵士の死や、満蒙開拓団家族の死を招いてしまった長野県の教育方針が戦後非難を浴びていることも事実です。戦後、竹田一夫は教育の世界から完全に離れて、行商で日々の糧を得る生活に変えていきましたが、これは恐らく戦前の教育を担った人の潔い結果責任の取り方であったと思います
しかし私は、「五属協和」、「王道楽土」、「農本主義」に基づく教育自体は、間違ってはいないと思います。泥沼の日中戦争に突き進んでいったことが、日本の間違いの本質であったと思います

*竹田一夫の満州国における理想の教育の具体的内容については、竹田一夫の妻・ますみと姻戚関係のある松沢正雄氏の以下の記事をご覧になってください;

以上

母・佐藤道子の思い出

小幡道子 (1920年7月4日―2010年5月15日 享年89歳)の前半生

福岡県築上郡築上町宇留津に小幡醫院の長女として生まれる。父・吉郎は道子14歳の時に脳卒中で死去、以後母・アキは遺された3男3女を一人で育て、自分は自給自足しながらも、男は医大と外語大に通わせ、女はそれなりのところに嫁がせるほど気丈な人だった。(あき1973年8月下顎悪性腫瘍にて東京の長男宅で死去。)

国立国会図書館に保管されていた小倉高等女学校の歌集に道子の短歌を見つけた。(検索by健一郎)父親の死に直面した少女の心がよく表れている

六甲山でのお見合いを経て1942年3月札幌の佐藤美代吉(大分県中津市出身)と結婚。九州から北海道という環境の激変に健康優良児だった体も悲鳴をあげ、1年目は全身関節炎で苦しんだという。
1945年11月長男・浩一、1948年8月次男・貞二、1950年9月長女・秀子出産。北海道拓殖銀行員の妻として美代吉を支えた。


はじめに

見出しの写真は、1973年6月2日の荒井徹・秀子の結婚式の時に撮影された父・佐藤美代吉と母・道子の写真です。撮影当時、父は59歳、母は52歳でした。父・佐藤美代吉は75歳で亡くなり、母・道子は89歳で亡くなりました
以下は、結婚前に持っていた写真と結婚後に、母・道子と撮った写真を纏めたものです

1959年
1959年
1964年

1.1973年6月2日・荒井徹・秀子の結婚式の写真;
当時美代吉父は慢性腎炎を悪化させ慈恵第三病院に入院中。医師団がベストな状態で結婚式に臨めるよう体調管理をしてくださったが、浮腫んだ顔から健康良好状態でないことは一眼で判るでしょう。当時は透析のベッド数が足りず、まだ腹膜環流という処置をしていたと記憶しています

1973年6月2日_徹・秀子結婚式

2.1975年孫と一緒;
下の写真左は清香(1975年5月21日生)、右は光浩君(1974年12月24日生)小金井のリビングで

3.1976年;
清香1才、3月初節句。両家の祖父母が笑顔で揃うのは孫の力なり
透析ができるようになり、力を得た美代吉父と一緒に懐かしき札幌へ。道子母はこの当時、週4回の病院通いに付き添いながら書の勉強を続けていました

4.1977年;
父・荒井忠作の七回忌、宗禅寺にて実施。7月には成浩君誕生(1977年8月30日)、小金井神社で初宮参り。この年10月に健一郎誕生(1977年10月11日)。続いて怜志(1979年1月12日)麻衣さん、義朗君と続き、七人の孫の祖父母となります

5.1984年_創玄展グランプリ受賞;
永年に亘り勉強を続けてきた書道でついに栄冠。創玄展かな部門でグランプリを受賞。書評「筆の弾力をよく生かしながらリズムに乗って無理なく呼吸を整え、温かい調子は人柄の表れであろうか」。夫の看病をしながらのグランプリ獲得は生優しい努力では達成できなかった事と頭の下がる思い。若い頃から箏、生花(池坊)、茶道(表千家)、人形作り、フォークダンス、話し方教室、料理(魚菜学園)、草笛、俳画、、、思い出すだけでも数多くの習い事をやっていた勉強家でした。最終的には書道が生涯をかけた道となり、教室を開くまでになりました

受賞作・受賞式
創玄展グランプリ受賞記事

6.1989年3月_カリフォルニア旅行;
1988年10月4日、46年連れ添ってきた夫・美代吉との永遠の別れにより、15年間続いた看病も終わりを遂げました。長い間海外旅行にも連れて行ってあげられなかったので、まずは米国カリフォルニアのリンダ・ホイランド家訪問。リンダは高校時代の夏休みにホームステイを受け入れた女性で20年ぶりの再会。両親もまだ健在でした。道子母68才

ツインピーク登山

7.1990年_福岡旅行;
健一郎(中1)怜志(小6)夏休みに祖母の故郷、福岡・大分旅行。みっともない格好で帰郷するわけにはいかないと、おしゃれをしていた道子さん。写真は中津で手広く海老の卸を営んでいた松本水産の里子さん(道子の従姉妹)を訪問した時のものこの後、毎年のように海外も含め旅行に行くようになります。1992年、健一郎・怜志と初めてのヨーロッパ旅行(パリ・ベルリン・デュッセルドルフ・フランクフルト)。出発前日にえのき茸が原因の中毒を起こし、点滴をしていると電話が来た時には、キャンセルかと焦ったがご本人が強く大丈夫行く!というので、ヒヤヒヤ出発。機内でどうかなったらどうしようと心配していたが、持ち前の健康体力で旅行中何もなく、楽しい旅を遂行。強い日差しのライン川船上では日光浴している白人に混じってスカーフで顔を隠し日除けに余念がなかった姿は懐かしい思い出
1994年には再びリンダの家訪問

松本水産にて

8.1995年_台湾旅行;
徹の台北駐在中計3回訪台。この年は小林さん、竹内さんと花蓮、台東温泉まで足を伸ばしました。この頃になると気持ちもフリーになり、根っからの好奇心の強さも手伝って現地の人との踊りにも参加して楽しむように。気心知れた人々との旅行は心底楽しいようでした。失敗談:台北行きに慣れた頃、あまりに気軽に行けることから外国であることすら忘れ、成田空港でパスポートを所持していないことに気づき大慌て、仕方なく帰宅して翌日一人で台北便に乗ることに。徹の手配でビジネスクラスにアップグレード、台北到着時には会社の方が飛行機まで出迎えてくれるという高待遇を受け、恥ずかしくも徹さんのお陰と大感激。久々の気分良いフライトだったようでした

9.1997年_ヨーロッパ旅行;
清香のベルギー留学が終わり帰国に合わせて小林さん、竹内さんと2回目のヨーロッパ旅行。ハンガリー、ベルギー、オランダ。ハンガリーでは清香の合唱で知り合った指揮者ズィマーニ・イシュトバン宅に泊まらせてもらい、ブダペスト観光、ゲレルト温泉にも入った(ぬる過ぎ)。ブリュッセルでは食を楽しみ、清香の撤収を待ちつつ美術館に。携帯もない時代、美術館を見た後は2時間くらい秀子の車が戻ってくるのを動かず待っていた。不安だったでしょうが、文句ひとつ言いませんでした。待たせた三人と留学中の荷物でいっぱいになった車でアムステルダムへ。なかなかスリルある旅でした

ハンガリー
ベルギー
オランダ

10.1998年;
当時俳画をNHK学園で習っていたこともあり、風間杜夫主演のドラマの1シーンに教室風景が映されることに。楽しい経験だったでしょう。実際の映像ではチラッくらいにしか映っていなかったけど、、、
この頃徹は、新航空会社「JALエクスプレス」設立のため大阪単身赴任中。それを利用して京都の紅葉を見に鞍馬まで。長い階段も平気で随分歩きました。大阪では「たくぎん」の看板がまだ掲げられているのを見つけ、これが最後かと一枚パチリ。北海道拓殖銀行はこの年8月に破綻したばかり。寂しいの一言

6月・NHKドラマに出演
11月_大阪・京都旅行

11.1999年;
自宅の書道教室の生徒である大瀬さんの別宅がオーストラリアのパースにあると聞き、草笛の仲間と書道教室の小林さんたちと訪問。豊かな暮らしをしている様子に感心、感嘆の声しきり。書道教室では書の練習のほかお茶を飲みながらのおしゃべりなどで楽しく過ごしていました

5月_オーストラリア・パースにて「草笛グループ」と
6月・7月
9月・11月

12.2000年3月_内山社中創玄展パーティ@赤坂プリンス;
札幌の松本春子先生から始まり、金子鴎亭先生、内山玲子先生、石飛博光先生など著名な先生に師事し、創玄書道会あしかび会あきつ会小金井書道連盟など多くの会にも所属、友達も多かったようです

内山社中創玄展パーティ@赤坂プリンス

13.2001年8月_九州旅行;
久しぶりに故郷訪問。桂子叔母と落ち合って大分から湯布院耶馬溪宇留津福岡
宇留津の実家はすでに壊され空き地となって、町の管理になっていました。近所の懐かしい人々と再会。皆等しく年を重ねている事に笑顔が溢れていました

14.2002年;
清香の運転で上高地から飛騨高山方面へ。遠距離ドライブも平気。78才

4月・飛騨高山の旅@上高地
4月・飛騨高山の旅_1
4月・飛騨高山の旅_2
12月・クリスマス・パーティー@荒井宅

15.2003年;
1月、清香結婚
5月沖縄へ。戦争遺跡や首里城訪問で沖縄の歴史を勉強
6月佐藤家いとこ会で佐藤一雄伯父の「瓔珞磨く」の歌碑を見に札幌へ
8月には金沢・能登の旅。随分とあちこち行ったものです

5月・沖縄旅行wiz清香
6月・従妹会@札幌

札幌での従兄弟会の他の写真・動画は、以下のスライドショーをご覧ください

8月・金沢・能登旅行

金沢・能登旅行の他の写真は、以下のスライドショーをご覧ください

16.2004年;
ゴールデンウィーク、清香と一緒に八戸、十和田、奥入瀬、弘前へ。弘前は父・美代吉が高等学校時代を過ごした町。弘前高等学校があった付近も通過、弘前城の桜を満喫。ソメイヨシノは終わり近かったけどしだれ桜は満開だったと記憶しています

4月_弘前花見

弘前・花見の旅の他の写真については、以下のスライドショーをご覧ください

17.2005年;
毎年初詣には東京百選に選ばれた東伏見神社に。この年は母・道子も連れ立って。意外と空いているけど、昨今は参拝者で長蛇の列になります。この年6月に初曾孫の明良君誕生

1月・初詣@東伏見稲荷神社

18.2006年;
明良君初節句
。この年母・道子は86才。母校小倉高等女学校で、一人でも多くお祝いしたいという意図で早めなのか、米寿祝いの同窓会が(現福岡県立小倉西高等学校)行われ、懐かしき友人たちと楽しい時を過ごした事でしょう

明良くんと一緒
6月・北九州市にて
6月_佐藤家従兄弟会@近江八幡

近江八幡で開催された佐藤家従兄弟会の他の写真・動画は、次のスライドショーをご覧ください

19.2007年;
佐藤家従兄弟会も年を重ねるにつれ頻繁に行われていました。皆さん親戚関係を大切にする方々で、夕食に続き部屋で近況や思い出話をすることが楽しみの従兄弟会でした。熱海での従兄弟会では池田満寿夫美術館にも行きました。
当日、続いて清香、明良くんと落ち合い、大島へ。ひ孫と旅行できるとは、なかなかない幸せな高齢者です
さらに、夏には新潟県の村上と佐渡島へ。お盆の花火に盆踊りと日本の夏を満喫。御多分に洩れず踊り出しました。無邪気で楽しそうな87才

4月・佐藤家従兄弟会@熱海

熱海で開催された佐藤家従兄弟会の他の写真は、次のスライドショーでご覧ください

4月・伊豆・大島旅行

伊豆・大島旅行の他の写真は、次のスライドショーをご覧ください

8月・佐渡・村上周遊

佐渡・村上周遊の他の写真・動画については、次のスライドショーをご覧ください

20.2008年;
ハンガリーでお世話になったズィマーニ夫妻来日。書をやってみたいというので、小金井へ。服部家族と一緒に行ったディズニーランドでは、パレードなど拍手喝采して楽しんでいました
7月4日の88才を祝い、赤坂プリンスクラシックハウスで米寿の祝宴。孫、ひ孫に囲まれて幸せを噛み締めていたことと思います
8月には東北へ。花巻では宮沢賢治、新渡戸稲造記念館、遠野ではカッパ淵や民話の里、姥捨山を元気に登り、平泉では中尊寺、高館義経堂、ふと振り返ると衣川を見渡せる丘に続く長い階段の上にいて驚かされた思い出もあります。よく歩いてはいたけど、車の後ろの席ですぐ寝ていたので、精一杯元気に振る舞いながら歩いていたのでしょう。最後の旅行になりました

4月・5月
6月・米寿の祝い
8月・東北周遊

8月・東北周遊の他の写真については、次のスライドショーをご覧ください
この後9月に脳梗塞を起こし、左半身不随に。闘病生活が始まります。慈恵第三病院で1ヶ月急性期を過ごした後、三鷹の野村病院に3ヶ月入院

21.2009年;
続いて小平リハビリテーション病院へ。車椅子で外出許可出るほど回復

10月・美代吉23回忌法要

22.2010年;
年明け深大寺近くの特別養護老人施設「ハナミズキ」へ

最後の正月
3月・昇吾さんお宮参り後
4月・井の頭公園でお花見

4月末容体急変、5月15日逝去 90才になんかなりたくないと言っていた通り、誕生日まで2ヶ月弱を残しての他界となりました

5月・葬儀@宗禅寺

父・美代吉の戒名:秋拓院美徳大光居士
母・道子の戒名 :浄玄院道薫清安大姉

合掌

父・忠作の生涯

 2021年3月8日に母・眞砂子33回忌に併せ、父・忠作の50回忌法要を催行致しました。この機会を捉え、先の戦争を挟んで波乱の人生を送り、61歳の若さでこの世を去った父の生涯を振り返ってみることを思い立ち、仏壇や書庫の奥に仕舞い込まれた写真や資料類を取り出して時系列に整理して纏めてみました

1.生誕から長野工業高校卒業まで
生誕:1909年12月17日、長野駅近くの北石堂町で生まれました(父:荒井彦太郎、母:トキ)
その後、恐らく(記録が無い)自宅近くの尋常小学校、高等小学校に通ったものと思われます。下の写真は高等小学校時代の集合写真と思われます。〇で囲った人が父・忠作の若い頃の写真だと推定されます;

その後、長野県立・長野工業高校機械電気科に進学し、1929年3月卒業しました(19歳)

長野工業高校時代

 この高校生時代の頃と推定されますが、4歳年上の姉(つる)が嫁入り後まもなく脊椎カリエス(結核菌が脊髄に侵入し助かる見込みの少ない病。ものすごく苦痛を伴います:正岡子規もこれに罹り亡くなった)に罹り、亡くなる不幸があり大きなショックを受けたようです。折々に仏前で「般若心経」を唱えたり、座禅をする習慣は、この時感じた「人生の虚しさ」が発端だったと聞いています

2.自動車学校の教官として就職
 卒業後、篠ノ井(長野駅から篠ノ井線で二駅目)にある自動車学校の電気の教師の職を得、自分よりはるかに年上の上、電気の知識の無い生徒に教えるのに苦労したようです

自動車学校の教官時代

 その頃の多感な父の心の遍歴、徴兵検査などについては、晩年日本航空のライン整備工場長時代(後述)に若い社員向けに書かれた以下の「私の二十歳の頃」をご覧ください(古い冊子のコピーなので少々読みにくいこと、お許しください);

1929年6月、上記の文章にも書かれていますが、この当時、人生最大の分岐点となる徴兵検査を20歳の6月に受け不合格になっています

3.航空業界の登竜門に立つ
1930年3月、この自動車学校の校長先生の薦めもあって、当時、軍以外の航空輸送事業の発展を図る目的で作られた国策の教育機関:逓信省航空局委託・航空機関士課程第4期生として入学しました。これが父・忠作が航空業界に進むきっかけとなりました
 この3年間は父・忠作の人生にとって人格的にも、教養の面でも大きく成長する機会になった様です。1932年の約一年間、父・忠作の成長の記録を探る手段として貴重な日記が残っていました;

1932年の俳句日記

 この日記は1932年2月27日~12月30日の間、若干の未記入の日がありますが、全246日分の自筆の文章が残っています。当時としては当然ですが、やや崩れた行書体で書かれており、読み解くのは困難を極めましたが、兄・威雄と妻・秀子の助けを借りてようやく父・忠作の成長の記録として重要と思われる60日分を若い人にも理解可能な文章に変換することができました。但し、文体はできるだけそのままにして、父の若い日の雰囲気を偲べるようにしています。以下は、この日記の大要を記したものですが、詳しい内容は「1932年(昭和7年)荒井忠作日記」をご覧になって下さい。尚、どうしても解読できなかった字や文章は”??”の表記にしてあります。また、分かり難い字や表現の解説や補足青字にして区別できるようにしています;

<この時代の政治・経済情勢>
1929年、米国での株価大暴落を機に世界大恐慌が起こりました。これにより日本の多くの産業分野が連鎖的な不況に苦しむ状況になりました
1930年、浜口首相、井上蔵相が「金解禁」を行ったことにより、日本の輸出産業は壊滅的な打撃を受けました
1931年、東北、北海道地方は冷害によって大凶作となり、日本全体に深刻な社会問題が発生しました
1931年9月、満州事変発生(以後1945年の終戦まで長い戦争が継続しました)
1932年3月、「満州国」の建国
*こうした社会情勢により、共産党の活動が盛んになり、これに関わる事件なども日記に記録されています
*この時代の政治情勢について詳しく知りたい方は、私(徹)のブログ「日本の戦争の時代についての一考察」をご覧ください(長文なので、時間のある時にどうぞ!)
<東京での生活>
*東京では下宿をしていました。この年の9月に代々木周辺から三鷹周辺に引越しをしています。友人も下宿している者が多く、お互いの下宿を訪問する機会も多かった様です
*国策の教育機関なので給与が支給されていたと思われますが、本の購入、夜間大学の授業料などで生活は楽ではなく、時折友人から借金をしていました
*スポーツは友人との庭球(テニス)の他、水泳(愛知県知多半島、新潟県の海水浴、玉川「多分多摩川のこと」)を楽しんでいました
*知識欲が旺盛であったので、度々本屋巡りをして本を購入すると同時に、暇があれば図書館で本を読んでいました。上記引越しの際は、所蔵する本が多すぎて新しい下宿先に直に送れず、近くの友人宅に仮置きして、少しづつ新しい下宿先に運んでいったという記述があります
*10月30日~11月28日の間、「尻の中にあった豆」と称していますが、恐らく「痔」の治療を行っていますが、これは歳を取ってからも何度も再発しています

<航空機関士課程での勉学>
航空力学熱力学気象学応用数学微分・積分学航空法規などの座学に加え、エンジンの分解・組立・調整、などの実習が毎日の様に行われていました ⇒ これらは私(徹)が大学の航空学科で学んでいた時と同じレベル
英語だけでなく、ドイツ語の勉強をかなりやっていますが、これは、当時航空先進国となっていたドイツの文献を理解する必要があった為と思われます
<夜間大学での勉学>
旧制高校、大学での教養課程に相当する文系の講座を受講していたものと推定されます

<教養に関わる記述>
文学の分野:ゲーテ、カーライル、ブレイク、ゴーリキー、石川啄木、寺田寅彦、島木赤彦などの作品を読んでいます。尚、偶然ですが、アララギ派歌人の島木赤彦は、母方の近い親戚にあたります
哲学の分野:ヘーゲル、カント、パスカル、和辻哲郎、などの著作を読んでいます
政治の分野:「史的唯物論」、「ドイッチェ・イデオロギー」などを読み、マルクス、エンゲルスの社会主義にある程度通じていると同時に、雑誌「思想」などを購読していますので、当時の政治に対して批判的であったと思われます(そうした記述も日記に入っています)
<人生の苦悩に関する記述>
*日記には、人生の苦悩に関する沢山の記述があります。詳しい内容に興味のある方は「1932年(昭和7年)荒井忠作日記」の【4月11日、5月7日、23日、6月3日、10月21日、24日、11月19日、28日、12月5日】の記述をご覧になって下さい
<人生の選択に関する記述>
*2月29日、福岡で飛行機の墜落事故があり、同じ航空機関生の先輩二人が死亡しました。航空機関士として乗務することは死のリスクが高いことを実感したことが、後に満州航空に就職してから地上職の職変していることと関係があると推察できます
*9月28日、満州航空設立の発表
*12月27日、満州に行く事につき、母(とき)の了解を得ました

<補足>
*日記帳として「俳句日記」を選んでいることは、後の趣味が俳句であることに繋がっていると考えられます
* 若い頃の姉の死、また4年前には父・彦太郎を亡くして(1928年10月25日)いたこともあって、仏教に通じ、随所に「生老病死」について仏教的な考え方が滲み出ています

1933年3月、ここを卒業した後、4月から9月までの半年間、当時航空機製造の大手企業であった中島飛行機製作所に勤めていますが、これは当時最新の航空機製造の現場を経験する為だったと思われます

4.満州航空時代
1933年10月、23歳で満州航空に入社しました。その後、かなり早い時期に航空エンジンの理論、及び整備の専門家(業務部・検査課)として実務に没頭していたと思われます。この頃の貴重な写真として以下があります;

1936年3月・奉天航空工廠発動機試運転場・「壽」第334号600時間耐久運転時の撮影

 」というエンジンは、中島航空機(株)で1929年に開発が開始されました。1931年に「寿一型」として正式採用され、その後改造型が順次開発されましたが、搭載された主な航空機に「フォッカー・スーパーユニバーサル」、「九六式艦上戦闘機」、「九七式戦闘機」、などがあります;

「壽」エンジン搭載機

 後述する父の葬儀に於ける弔辞の中に、この「」エンジンが旅客機(フォッカー・スーパーユニバーサル)用エンジンとして装備された後、父・忠作は信頼性向上の為の研究、改修を行っていたことが書かれてありました。当時、航空機の開発は急速なピッチで進められており、マニュアルなどの準備が整わない中で、信頼性向上の為の研究、改修は現場の技術者の努力に負う事が大きかったと言われています。
 因みに、この「壽」エンジンを土台として、中島航空機(株)が、次の世代の航空機エンジンとして開発したものが、有名な「ゼロ戦」に搭載された「」エンジンです

 恐らく航空エンジン技術の最先端を担っていたこの時代に書かれたものと思われますが、父・忠作が執筆した論文(ブリストル・スリーブバルブ・エンジン航空発動機の発達及諸問題)が残っています

1937年、(竹田)眞砂子と結婚。引揚時の混乱の中で、満州時代のほぼ全ての写真は失われてしまいましたが、母親あてに日本に送った写真が、幸運にも長野の実家で見つかりました;

忠作・真砂子の結婚式

1938年8月19日長女・悠紀子誕生

結婚前後の写真@満州

長女・悠紀子誕生後に日本へ里帰りした時と思われる写真が以下の写真です;

日本へ里帰りした時の写真

 左の写真は年末年始の頃に実家に里帰りした時の写真の様です。左側には兄・吉太郎夫妻。中央に忠作夫妻の長女・悠紀子(推定0歳)を抱く母・とき、その右が吉太郎夫妻の長女・いづみさん(推定7歳)だと思われます。右の写真は、その翌年(1939年頃)伊勢の「二見興玉神社の夫婦岩のそびえる禊の浜」で撮った写真と思われます

1941年4月10日長男・威雄誕生
1941年7月29日
長女・悠紀子死去

1943年10月(33歳)に満州航空株式会社の社長表彰を受賞しています

1944年二女・昭子誕生 ⇒ 1ヶ月足らずで死去

二女・昭子の葬儀

1945年4月2日次男・徹誕生

1945年8月9日ソ連の大軍が満州に侵攻してから、翌年の日本への引揚げ迄の荒井家の苦難の歴史については「生い立ちの記」参照してみて下さい。また、同じ様に満州に住んでいた竹田ファミリーの苦難の歴史については「母方親族の戦争体験」を参照してみてください
家系図を見れば分かるのですが、両親がこの苦難の時期を乗り越えてくれたお陰で現在の我々子孫があることになります
1946年7月、 引揚げ(36歳)
*引揚げ後の苦しい生活については、「母・真砂子の生涯」と重複していますので。詳しくはそちらをご覧になって下さい

5.引揚げ後、日本航空入社までの職歴
 終戦後、進駐してきた連合軍総司令官のマッカーサーは、太平洋戦争中、日本軍の航空機による攻撃に悩まされたこと(開戦初期の空戦能力に優れたゼロ戦の攻撃戦争末の特攻機による攻撃)から残存航空兵力の破壊に止まらず、日本人による航空に関する研究開発、航空会社の活動など全てを禁止しました。この結果、航空事業に従事していた父・忠作などの技術者は、戦後の厳しい生活環境の中で家族の糧を得るために死に物狂いの努力を続けました。このマッカーサーの命令は戦後7年間続きました
1947年、2月 長野電気研究所(37歳)
1948年7月6日三女・真理子誕生

 長野での職探しに見切りをつけた父・忠作は、友人を頼って単身東京に出て、職探しを始めました
1950年、7月 ビクターオート株式会社(40歳)入社

1951年、8月 日本航空設立
1951年、10月 戦後の日本航空第一便(羽田空港→伊丹空港)就航。航空機はマーチン202型機、航空機の愛称は「もく星号(1952年4月9日、伊豆大島の三原山に墜落)」

戦後の日本航空・第一便

1951年11月、東京都保谷市にある都営住宅へ家族全員を呼び寄せました

6.日本航空整備(株)⇒日本航空(株)の時代
 この時代、航空関係で職を失っていた人々(旧大日本航空、満州航空、満州飛行機製造、などで働いていた人々)が、徐々に新しく設立された日本航空に集まってきました
1953年4月日本航空整備株式会社に入社しました。既に年齢は43歳、一介の整備士として再出発しました

1956年@エンジンショップ

1956年2月日本航空整備(株)管理部検査課・課長に昇格
この頃、俳句同好会「江戸見」に所属しており、その句会の準備の為、あるいは吟行で読んだ俳句の下書きが残っています:俳句帖(1956年~1960年俳句帖(1962年~1963年)

1958年_都営住宅時代の家族写真

1959年5月日本航空整備(株)原動機部・次長に昇格

1960年7月、日本航空はDC-8型のジェット旅客機を初めて導入しました。パンアメリカン航空が太平洋路線に始めて導入したB707ジェット旅客機に旅客を奪われたため、急遽導入を決めたものです

DC8-30 1号機「Fuji号」

 日本航空にとって、ジェット機の導入は初めての経験であり、とりわけ従来のレシプロ・エンジンとジェットエンジンの構造や、整備方式には相当の違いがあり、導入の前年に同僚と二人でプラット・アンド・ホイットニー社に2ヶ月程研修出張に行きました。この当時アメリカへの出張は大変珍しく、私(徹)も兄・威雄に連れられて羽田空港まで見送りに行っことを覚えています。また、長期出張中に貯めたお金で、ブランド物の腕時計(父母用)や、引揚時に失った母の結婚指輪に代わるダイヤの指輪を買って来たことを思い出します

1961年9月日本航空整備(株)原動機部・部長に昇格

1962年10月運輸大臣表彰(航空功労賞)(52歳)

航空功労賞・受賞式

1963年10月日本航空整備(株)は日本航空(株)に吸収合併されました
1963年10月ライン整備工場長就任。ライン整備工場は、国内線、国際線全ての航空機の定期整備(オーバーホール、大型改修を除く)、及び運航整備を担当しており、当時でも1500人を超える整備士を擁する大きな組織でした。また、当時、共産党系の労働組合による争議が頻繁にあり、最終的に共産党系の組合から穏健な組合(全日本航空労働組合)を分離させるという、労務経営上の大仕事の責任者の一人として、非常にストレスの多い毎日を送っていました

ライン整備工場

1964年6月黄綬褒章・受章(54歳)。見出しの写真はこの時のものです

1968年4月日本航空(株)の理事に昇格(58歳)。これより、会社への通勤は全てタクシーが配車されることとなりました
1969年5月日本航空整備協会・副会長

1969年、新居建設、移転。埼玉県新座市宅地を購入し、殖産住宅(株)に新居を発注しました。この時の借入金の返済は、亡くなる一カ月前の1971年1月まで続きましたので、正に父・忠作の家族に対する最後の贈り物になりました

新居建設

1970年3月日本航空定年退職(60歳):退職時のお別れ会の時に書かれた退職時の色紙を見ると、多くの部下に慕われていたことが分かります
1970年4月、B747の初号機(JA8101)が就航しました。それまでの航空機の2倍以上の大きな航空機の導入により、その後20年間の航空旅客需要の伸びは驚異的となりました。一方、受け入れる航空会社は、客室部門、旅客部門、整備部門、などの現場部門は導入までの数年間、急激な人員増、施設の拡充、などで厳しい対応を迫られました。整備部門はこれに加え、新しい整備方式の導入、これに伴う整備士の教育、などが必要となり、整備の第一線を預かっていた父・忠作の導入までの数年間は大変な業務量であったと思われます

747-100 初号機

1970年5月新日本航空整備株式会社初代社長(代表取締役)に就任。この会社は、前身である伊藤忠航空整備(株)、日本航空(株)、全日空(株)が三分の一づつ出資して作られた会社で、現在迄発展を続けている優良会社に成長をしました
1971年2月27日61歳で波乱万丈の人生を閉じました。葬儀の様子、及び死後に賜った「双光旭日章」などについては、「母・真砂子の生涯」と重複していますので。詳しくはそちらをご覧になって下さい

葬儀の式次第、弔辞、その後の友人たちの追悼文を以下に引用します;
社葬_式次第・弔辞_新日本航空整備(株)社報臨時号より
追悼文(駒林栄太郎・五十嵐正・中西正義・岡部武夫)_航空技術

以上

荒井犬太郎のアルバム

長男・健一郎(クリエーター名:犬太郎)作詞・作曲による1st アルバム「1441」です

1.マグカップ(A Mug)

2.窓(A Cell)

3.言葉はいらない(On the Shore)

4.また来ん春(It Comes Around)

5.青の風景(Visionary Blue)

6.おやすみ(Goodnight)

歌詞;

母・眞砂子の生涯

33回忌(2021年3月28日)に向け、母・真砂子の波乱の生涯を写真中心に纏めてみました

生誕1915年11月22日 長野県諏訪郡(現在の諏訪市)において父・竹田一枝、母・志ようの末っ子として生まれました(母・出生の記録
1927年、竹田志よう、竹田一枝が相次いで死去しました(母・眞砂子は12歳
*同年、満州・撫順在住で永安台小学校の訓導(現在の教諭に相当)をしていた長兄・竹田一夫にひきとられ満州に渡りました。撫順市は露天掘りの大規模な炭鉱があることで有名です;

撫順炭鉱・露天掘り

永安台小学校は、撫順駅近くにあり、中国に旅行した時に購入した絵葉書集の中に写真が残っていました;

永安小学校

その後、母・眞砂子は満鉄撫順病院・付属看護学校に入学しました。ここを卒業後、満鉄撫順病院看護師となり、外科婦長まで勤めましたが、父・忠作と結婚すると同時に病院を退職しました

満鉄撫順病院

満洲での生活(結婚前)

結婚前@満州

荒井忠作と結婚(1937年)
*夫・忠作は1933年に渡満、満州航空で職を得ていた
*引揚時の混乱の中で、満州時代のほぼ全ての写真は失われてしまいましたが、父・忠作の実家あてに日本に送った写真が、幸運にも長野の実家で見つかりました

忠作・真砂子の結婚式

1938年長女・悠紀子誕生 ⇒ 1941年死去(4歳/戒名:紀芳善孩女

1941年4月10日長男・威雄誕生
1944年二女・昭子誕生 ⇒ 1ヶ月足らずで死去戒名:昭芳嬰女
1945年4月2日次男・徹誕生
*上記の写真を含め、満州時代の写真はスライドショー(1分程度)にしてYouTubeにアップロードしてあります:満洲時代(1927年~45年)の写真

*終戦直前の1945年8月9日ソ連の大軍が満州に侵攻してから、翌年の日本への引揚げ迄の荒井家の苦難の歴史については「生い立ちの記」参照してみて下さい。また、同じ様に満州に住んでいた竹田ファミリーの苦難の歴史については「母方親族の戦争体験」を参照してみてください
家系図を見れば分かるのですが、両親がこの苦難の時期を乗り越えてくれたお陰で現在の我々子孫があることになります

引揚げ1946年7月
*満州からの引揚者は皆同じですが、満州時代所有していた有形・無形の資産は全て放棄され無一文で引き揚げてきました。冗談みたいな話ですが、2016年になって横浜税関から通知があり、ただの紙切れとなった満洲時代の保険証書、と郵政貯金簿が返還されました!
*引き上げ後は住む場所が決まるまで父の実家(長野県長野市北石堂町)に寄宿
長男・威雄、次男・徹が相次いで腸チフスに罹患、母・眞砂子がニンニクを食べて二人の看病をしてくれたお陰で奇跡的に二人は生還することができました

長野市営アパート(長野市居町)への引越し(1947年)
*一間の簡素なアパートの2階で、トイレ(1階)、炊事場(2階)は共用でした
1948年7月6日三女・眞理子誕生
*満州時代、そこそこ裕福な生活をしていた荒井ファミリーにとって、引き上げ後の生活は非常に厳しいものがありました。航空技術者であった父は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による戦後7年間の航空関連の研究やビジネスの禁止命令」により技術を生かした仕事が得られず、友人から借金をして職業を転々としました(長野特産のリンゴの行商;ベークライトの製品の製造;フォノモーターの製造、など)。長男威雄の記憶によれば、日本航空への就職を果たした後、10年程かけて友人からの借金を完済したそうです
*幼い眞理子が、ちょっと目を離した隙に二階から落ち大腿骨を骨折してしまう事故がありました。この治療は、病院ではなく所謂「骨接ぎ(骨折や脱臼などの治療を専門にする柔道整復師が開業できる施術所)」で行ったため、大腿骨を元の状態に戻して副木(添え木)を当てただけの処置でした。痛みが取れるまで長期間夜泣きがひどく、母が近所迷惑になることを心配して外に出て真理子が眠るのを待つ毎日でした。副木を当てているだけなので、おんぶは出来ず、両腕で水平に抱くしかなかったので並大抵の事ではなかったと思われます
*当然ですが、この厳しい時代の写真はありません

都営住宅(東京都保谷市)への引越し1951年11月
*引き上げ後、父は長野市で始めた仕事に見切りをつけ、東京在住の友人を頼って東京に出て、所沢にあった進駐軍の自動車を整備するビクターオート(株)に就職を果たしました。その後、1956年になって前述のGHQによる「航空関連の研究やビジネスの禁止命令」が解かれ、日本航空が再興されると、満州航空時代の友人からの勧誘があって日本航空で航空技術者として再出発を果たすことができました
*当時、戦災により東京の住宅事情は逼迫していましたが、運よく都営住宅の抽選に当たり、引っ越しました。当時の荒井ファミリーにとっては父の日本航空就職と一戸建ての家の確保は、正に夢の実現でした

1956年・幸せな荒井ファミリー

*この都営住宅での生活は1951年から1969年の18年間続きます。この間に、父は日本航空で順調に地位を上げ、自宅も、井戸から水道に変り、都市ガスが引かれ、風呂が出来、狭いながらも勉強部屋が出来るなど、生活も毎年確実に向上していく幸せな時期でした
*しかし1954年の夏、始めて家族で逗子に海水浴に行った時、眞理子が迷子になり、また帰ってからすぐに母が「日本脳炎」に罹患し2ヶ月ほど入院するという突然の災難に見舞われました。以降、父母は決して海水浴に連れて行こうとは言わなくなりました。その代わり、威雄・徹の2人は夏休みの間、父の長野市の実家で長期間過ごす様になりました

*苦しい家計のやりくりや、3人の子育てで大変だった母も、1960年代に入るとややゆとりが生まれ、華道茶道の趣味に勤しむようになりました

母が取得した華道の免状

1964年6月1日、父・忠作は、長年の航空機整備に関わる貢献を認められて黄綬褒章を受章しました

1964年・黄綬褒章受章

*上記の写真を含め、都営住宅時代の写真は49枚ありますが、これらはスライドショー(約5分)にしてYouTubeにアップロードしてあります:都営住宅時代の写真

新居への移転1969年~
1969年~1971年3月2日>
*敗戦によって一旦挫折した夫婦の夢は、埼玉県新座市に新居を構えることで実現しました。新居の建設はサラリーマンにとってかなり負担の大きい支出を伴いますが、満60歳で退職する際の退職金の充当と併せ、借入金の月賦返済で賄われることになりました
1970年3月31日長男・威雄、小高和子さんの結婚式が神楽坂の「教育会館」で催行されました。折しも日本航空の「よど号」が赤軍派に乗っ取られて国中大騒ぎをしている最中であり、披露宴ではアルコールが入るにつれ、この事件の話で盛り上がっていたとのことです

1970年3月31日・荒井威雄・和子の結婚式

*日本航空では、退職者に海外旅行をする機会を与えていました。当時日本航空が世界一周路線(1967年~1972年)を持っていたこともあり、両親は北半球の世界の主要都市を旅行しました。旅行中は、昔部下だった駐在員の心温まる接待を受け、特に母親は嬉しかったと思います
旅行中の写真は、以下のYouTubeをご覧になってください:世界一周旅行の写真(約2分)程度
*退職後は、既存の伊藤忠航空整備(株)に日本航空と全日空が資本参加して生まれ変わった新日本航空整備株式会社(JAMCO)の初代社長に就任しました(以下の写真はJAMCO25周年記念の社史より転載しました)

*既にこの4月の時点で後述する死の病に罹っていたと思われ、昔の部下が自宅に訪ねてきた時、酒のお付き合いができないのを見かねて私(徹)が一緒に訪問客の酒のお付き合いをしたことを思い出します(下記の写真はその時のもの)

1970年4月・自宅応接間にて

*この年の8月、両親と私(徹)が長野のとある温泉に出かけた時、父親は既に宿の階段を上る事にも苦労していました
9月17日、胃潰瘍の手術をするという名目で開腹手術を行ったところ、「胃がん」の末期で何も治療できない状況にあることが判明。当時の倣いとして本人には病名を知らせず、家族だけに余命いくばくも無いことを知らされる為、その後、亡くなるまでの約半年間、母の心の葛藤、苦しみは大変なものだったと思われます

1971年2月27日、父・忠作死去(享年61歳)
葬儀は3月2日、三鷹・禅林寺に於いて社葬にて執り行われました。尚、新築した家の借金は亡くなる1カ月前に完済していました。下記の写真を含め、葬儀の写真はスライドショー(約1分半)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1972年3月2日_父・忠作の葬儀

<1971年3月3日~1988年3月28日>
*父・忠作と手を携えて、戦前、戦中、戦後の厳しい時代を乗り越えてきた母・眞砂子にとって夫・忠作の死の衝撃は余りに大きく、暫くは何も手につかない状況でした。しかし、翌年の三回忌に備え墓地の確保、墓石の準備、などに心を砕いていました
*死亡した日と同日付で、勲五等双光旭日章を授与されました

*戒名は荒井本家の菩提寺である昌禅寺でつけてもらいました。この時は、母・真砂子と長男・威雄の他に、父・忠作の親友が付添ってくれて、航空界に一生を捧げた父の経歴を説明した結果、以下の様な立派な戒名を授けて頂きました:大泉院千峰一機居士

1971年4月20日威雄家の長女・朋子誕生

1972年2月27日、新しく檀家となった東京都羽村市の宗禅寺に於いて父・忠作の一周忌を催行しました

1972年2月27日_父・忠作の一周忌

1972年、母・真砂子も家族親戚に支えられて元気になってきました。下の写真は1972年冬に撮影された長男・威雄の家族と姪・水島享子さん家族との写真です

1972年・冬

1973年4月三女・眞理子は、近藤清さんと結婚しました。結婚式は愛媛県松山市土居町にある清さんの実家近くの茅葺き屋根にぺんぺん草が生えている神社で催行されました。披露宴は実家の広い部屋で座卓を並べた会場で、時間無制限で酒を差しつ差されつするという、都会での結婚式とは一味違った経験をすることができました

*1973年6月、次男・徹は佐藤秀子と結婚しました。式場は二人が出会うきっかけとなった神田一橋の学士会館です

1974年9月、次男・徹、秀子と母・眞砂子がハワイ旅行に出かけました。また、12月にはその後恒例となったクリスマス会を自宅で行いました。ハワイ旅行の写真はスライドショー(約1分半)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1975年5月21日徹家の長女・清香誕生
1975年6月14日威雄家の二女・暢子誕生

1975年の写真

1976年は家族、親戚に囲まれて幸せそうでした。1976年の写真5枚はスライドショー(約30秒)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1977年3月父・忠作の七回忌を宗禅寺にて催行しました、この時の写真7枚はスライドショー(約40秒)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1977年10月11日徹家の長男・健一郎誕生

1978年4月26日近藤家の長男・晋太郎誕生

4月・晋太郎くんのお宮参り_11月・威雄ファミリーと一緒@箱根

1979年1月12日徹家の次男・怜志誕生

1979年の出来事

1980年の出来事

1981年4月30日近藤家の長女・理絵子誕生

理絵子ちゃんお宮参り

1982年の出来事。下記の写真を含め19枚の写真は1982年の出来事としてスライドショー(約2分)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1982年の出来事

1983年2月27日父・忠作13回忌を宗禅寺に於いて催行しました。この法事以外の写真を含め35枚の写真は、1983年の出来事としてスライドショー(約3分半)にしてあります

1983年2月27日・忠作13回忌

1984年11月徹家の次男・怜志近藤家の長女・理絵子七五三を迎えました。また、親戚、家族の誘いで沢山の国内旅行(善光寺、霧ヶ峰高原、西武園遊園地の花火、萩寺、会津磐梯山、など)を楽しんだ幸せな年であったと思われます。以下の写真を含め48枚の写真は、1984年の出来事としてスライドショー(約5分)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1983年11月・七五三(怜志:5歳、晋太郎:6歳、理絵子:3歳)

1985年1月25日近藤家の次男・悠爾誕生
1985年11月22日、母・眞砂子の古希の祝いを行いました。また1984年同様、親戚、家族の誘いで沢山の国内旅行を楽しんだ幸せな年であったと思われます。以下の写真を含め49枚の写真は、1985年の出来事としてライドショー(約5分)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1986年も親戚、家族、友人との交流を頻繁に行い充実した1年だった思われます。以下の写真を含め49枚の写真は、1986年の出来事としてスライドショー(約5分)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1986年の出来事

1987年は母・眞砂子が亡くなる前年に当たります。持病となっていた「心房細動」により、旅行を楽しむ体力が無くなっていたのかもしれません。以下の写真を含め14枚の写真は、1987年の出来事としてスライドショー(約1分半)にしてYouTubeにアップロードしてあります

1987年の出来事

1988年3月28日「心房細動」による心房内の血腫が原因で母・眞砂子が死去しました。正月に3回目の発作を起こし、救急車で近所の「堀之内病院」に入院しました。小康を得た後、心房内の血種を取り除く根本的治療を行う為に東大病院に転院して手術を待っていましたが、予定されていた手術日の前日に、見舞いに来ていた華道教室の生徒さん達に見守られて息を引き取りました

戒名:慈泉院眞相妙覚大姉  合掌

心残りな事は、堀之内病院から手術のために転院する際、主治医の薦める病院ではなく、私(徹)の一存で友人がいる東大病院を選んでしまったことです。もし主治医が薦める病院に転院していれば、待たされずに手術ができ生き続けることができたのではないかと、、、

以上