ー はじめに ー
これまで荒井ファミリーの歴史の中で、父・母の生涯やファミリーのレジェンド達の生涯については纏めてきましたが、荒井徹・秀子の生涯については「空欄」であることに気が付きました。しかし、二人ともいつ何時冥途からお呼びが来ても不思議ではない年齢に達していることに気づき、子供たちが我々の写真や遺品の始末に困らない様に、現在まで二人の辿ってきた歴史、言わば我々の「生きた証し」を日々書き留めておこうと考えました。つまり、我々が二人とも死んだ時点で「荒井徹・秀子の生涯」が完結するという具合です
歴史好きの私としては、歴史に名を刻むほどの人生ではないことは承知の上で、世界史、日本史の中でどう生きて来たかをピン止めすることにより、読者が時代背景を想像するのは悪くはないかと考えた次第です
徹・秀子の歴史
<戦争の時代>
1927年 徹の母・竹田眞砂子は、父母が相次いで死去の後、満州に居住していた兄・竹田一夫の許に渡る
1931年09月 満州事変勃発
1932年03月 満州国建国

*満州国について深く知りたい方は「満州国,その”うたかたの夢”」をご覧になってください
1933年10月 父・荒井忠作 満州航空入社
1937年02月 父・荒井忠作と母・竹田眞砂子結婚

1937年07月 盧溝橋事件を発端として日中戦争が始まる
1938年08月 長女・悠紀子誕生 ⇒ 1941年7月死去
1941年04月 兄・荒井威雄誕生
1941年12月 真珠湾攻撃 ⇒ 日本はアメリカ、イギリスに対し宣戦布告、以後4年にわたる太平洋戦争が始まる


1944年04月 次女・昭子誕生 ⇒ 1ヶ月足らずで死去
1945年04月 荒井徹誕生(@満州)
*生誕から敗戦、長野における引揚者住宅での生活までは「生い立ちの記」参照
<敗戦後の苦難の時代>
1945年08月 日本の敗戦
1946年07月 荒井一家、満州からの引揚(奉天/現在の瀋陽 ⇒ 葫蘆(ころ)島 ⇒ 舞鶴 ⇒ 長野県長野市(父の実家 ⇒ 引揚者住宅@居町)

1948年07月 三女・真理子誕生
1950年09月 佐藤秀子誕生(@札幌市南2条西23丁目)
1951年11月 荒井徹、東京都北多摩郡保谷町・都営住宅に転居
1952年03月 佐藤秀子、小樽市富岡2丁目6に転居

1952年04月 荒井徹、保谷第二小学校入学

1953年03月 ソ連共産党中央員会書記長・スターリン死去
1954年03月 佐藤秀子、京都市金閣寺近くのアパートに転居
1954年05月 フランスがディエンビエンフーの戦いで北ベトナム人民軍に大敗し、ジュネーブ協定によって最終的にインドシナ半島から撤退。その後、アメリカは南ベトナムへの財政的・軍事的支援を開始した( ⇒ 20年近くに亙るベトナム戦争への米軍の関与に繋がる)
1955年03月 佐藤秀子、京都市左京区下鴨東塚本町に転居 葵幼稚園入園


*初めて飼った雑種犬(コロ)が餌を食べている時に手を出したために眉間を噛まれる
*家のそばの琵琶湖疏水より北側は全て田んぼで、自然豊かなところで蛍狩りもできていた
*北海道拓殖銀行(以下拓銀)京都支店長の家にテレビが入り、行員家族で雨戸を閉めて初めてのテレビ鑑賞
1956年03月 佐藤秀子、札幌市南6条17丁目に転居 美術幼稚園に転園
*社宅のトイレの染付古便器が怖かった。風呂なしだったので、銭湯通い
*母の勧めでバレエを習い始めるが、膝小僧が出てるし下ばかり見ていて素質が見られないと言われ、数ヶ月で辞める
<高度成長時代;徹・秀子の学生時代>
1956年07月 この時発表された経済白書の結語の一節に「もはや戦後ではない」と書かれていた。朝鮮戦争の特需などにより高度成長を遂げ前年のGDPが戦前の水準を超えた
*荒井徹、都営住宅での平和な日々;

*徹の小学生時代、兄・威雄と夏休み中に数週間父の実家(長野県長野市北石堂町)でお世話になっていた。近くの
裾花川(犀川の支流)で魚取りをしたり、従姉の荒井いづみさんの蔵書をお借りして読書に耽ったりしていた。蔵書の中でもユダヤ人虐殺に関連するヴィクトール・E・フランクルの著作「夜と霧」に大きな衝撃を受けた記憶が残っている。また、荒井いづみさんの夫である荒井謙治さんは、若いころ画家を志していたこともあり、多くの素晴らしい絵がり、上の絵は、生前いづみさんに頼んで貰ったものです。絵の背景にある山は、裾花川のそばにある旭山だったと記憶しています
1957年04月 佐藤秀子、港区東麻布2丁目に転居。飯倉小学校入学
*映画「ALWAYS三丁目の夕日」の舞台の様な商店街に住み、東京タワー建設予定地の広大な空地を眺めて遊んでいた
*米国人とのハーフの友達の家で初めてアメリカ人を見て恐怖を感じる
1957年08月 佐藤秀子、大田区東雪谷1丁目に転居。小池小学校に転校
*近所でピアノを習い始める(自宅ではオルガンで練習)。ピアノの先生の優雅な洋風生活に憧れを感じた
*兄・貞二が野犬狩りに捕まった犬を「うちの犬だ~」と言って助け出し、家で飼うことになり、「ちび」と名付けて可愛がった
*11月の「七五三」のお祝いは、いやいやながら母に連れられ近くの洗足池神社で行った。
*兄・貞二は野球少年でもあったが、好きな釣りをしによく洗足池に行っていた。ある時この池に落ち、ずぶ濡れになってお巡りさんに連れてこられて帰った時の光景が忘れられない
1958年03月 荒井徹、保谷第二小学校卒業 ⇒ 写真集(小学生時代の思い出)、(写真集の中で紹介された校歌)
1958年04月 荒井徹、学芸大学付属小金井中学校入学

*都営住宅での幸せな毎日;

1959年03月 佐藤秀子、世田谷区奥沢4丁目に転居
*庭に卓球台を設置してもらい、よく兄弟で遊んだ
*母・道子は「魚菜学園(自由が丘の料理学校)」で料理を習い始め、当時は珍しいケーキを作りご馳走してくれた。また洋食のテーブルマナーを教わった
1959年12月 佐藤秀子、札幌市南8条15丁目に転居 二条小学校転校
*父・美代吉の札幌への転勤に伴い飛行機で連れてきた「ちび」が、銀行の寮に仮住まい中に行方不明になり、母・道子の懸命の努力にも関わらず見つけることができなかった
*北海道では三学期にスキーの授業があるため、冬休みに「スキー教室」に通わされた。兄のズボンを履きスキーのできる山まで歩かねばならず、転んでは笑われ、また先生には「6級には程遠いが、それ以下の級はないので6級にします」と言われ、ひどく傷ついた記憶が残っている
*野良犬を拾って物置で飼い始め、「チャク」と名付けた。メスだったので子供を産み、室内で大切に育てていたものの犬の感染症である「ジステンバー」に罹り、全て死なせてしまった
*学校では、音楽と体育が得意(特に卓球、徒競走)となり、初めは苦労した
スキーも5年生のころには選手として選ばれるようになった。6年生の学芸会でピアノ伴奏を行ったものの、間違えてしまい自信喪失してしまった
*母・道子はその後の人生の支えとなる書道を本格的に始めることとなった
*札幌YMCAで声楽を習い始める。英語を話す先生夫妻、先生の美しい声、ペチカのある家、家の中で飼っている犬、何もかも憧れの対象となった。一つ年上の娘さんと仲良くなり、英語を教えてもらった。毎年一緒に支笏湖キャンプに行った
1961年03月 荒井徹、学芸大学付属小金井中学校卒業 ⇒ 写真集(中学生時代の思い出)、(校歌/3番のみ)
1961年04月 荒井徹、学芸大学付属高校入学

1962年10月 キューバ危機
*ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚、米国がカリブ海でキューバの海上臨検を実施し、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事。ケネディ大統領とフルシチョフソ連共産党第一書記との話し合いで最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わった
1963年04月 佐藤秀子、札幌市南15条16丁目に転居。伏見中学校入学
*秀子、学校から帰宅後に愛犬「チャク」の死を発見、大きなショックを受けた。庭にお墓を作り葬った
*この頃、兄・浩一は、物置で庭の石を使ってウェイトリフティングをやり、サンドバックを吊ってボクシングの練習をやっていた。兄・貞二は、中学体育連盟の陸上競技の選手になり、秀子は卓球大会で優勝するなど運動では大いに成果を挙げていた
1963年11月 ケネディ大統領暗殺
*徹がこの暗殺の報に接したのは、大学受験準備の為に公開模擬試験を受けに行く当日の朝だった。徹は、当時ケネディ大統領を尊敬していた為、非常に大きなショックを受けた
*ケネディ大統領が、徹を含め多くの若者の心を掴んだのは、類いまれな倫理観に基づいたその政治姿勢であったと思われる
参考:1961年1月の「大統領就任演説」、1963年6月のアメリカン大学で行われた「平和のための戦略」
1963年12月 佐藤秀子、小樽市富岡町2丁目7に転居。西陵中学校に転校
*父・美代吉は取締役・小樽支店長に就任。支店長社宅は小樽港を見下ろせる和風邸宅で、四季折々の美しい花が咲く庭があった。間取りは12部屋にトイレが3ヶ所、風呂は五右衛門風呂、大きな蔵がついていた
*過去に飼っていた犬達が死んだにも拘わらず、秀子が我がままを通してアイヌ犬「北洋」を飼ってもらえることになった
*この中学では2年間同じクラスとなったことから、生涯の親友を作ることができた
*伏見中学での優勝経験から卓球部の助っ人となったが馴染めなかった。一方、合唱部では部長を務め、学芸会では、ピアノ伴奏と声楽を披露するほど音楽に親しんでいたものの、尊敬していた音楽の先生が急逝したため音大に進む夢を失ってしまった
*東京へ行く夢膨らませ、しんしんと雪の降る静けさの中、小樽駅から響いてくる蒸気機関車と港の船の汽笛を聴きながら受験勉強を行った。そのストレスのせいか、12月に入って盲腸炎になり手術を受ける羽目になった
1964年03月 荒井徹、学芸大学付属高校卒業 ⇒ 写真集(高校生時代の思い出)
1964年04月 荒井徹、駿台高等予備校入

1964年10月 東京オリンピック

*東京オリンピックの歌
1965年03月 荒井徹、駿台高等予備校卒業
1965年04月 荒井徹、東京大学理科一類入学

*教養学部時代の写真集:(クラスの仲間と)、(釣友会)
1966年04月 佐藤秀子、青山学院高等部入学、世田谷区梅ヶ丘の親戚宅に寄宿
*父・美代吉の義兄・蓮井平一さん(美代吉の姉が早世した後、利子夫人と再婚)の梅ヶ丘の邸宅の二階に寄宿。この伯父は拓銀の先輩であり父・美代吉を非常に可愛がってくれた人でもある。利子夫人は学習院出身の上品な方で「ごきげんよう」が似合う人であったこともあり、自分のガサツさが身に沁みた!
*大半が東京出身者で占められていた高等部では、北海道出身ということでコンプレックス感じていたが、軽音楽クラブに入ってからは文化祭でコンサートを企画、演奏したりしていたため羨まれることもあった。この時の経験が、人生後半の生き甲斐となった国際文化交流活動に役立ったことは確かである
1967年3月 佐藤秀子の父・美代吉は、東銀座東急ホテルで「一過性脳虚血」を発症
*以後3ヶ月慈恵医大病院に入院、入院中の検査で、この後の人生に大きな影響を与える腎機能障害が発覚した
1967年04月 荒井徹、東京大学工学部・航空学科進学
1968年03月 佐藤秀子、小金井市緑町4丁目12に転居
*父・佐藤美代吉、拓銀を退職、北海道東北開発公庫理事に転出して苫小牧工業地区の開発担当となり、東京と札幌を行き来する勤務が始まった
1968年10月 佐藤秀子、小金井市緑町4丁目6-25の新築の家に転居
*佐藤家の家族5人は4年振りに一緒に暮らすこととなった
1968年~69年 東大闘争(学部生・大学院生と大学当局の間で、医学部処分問題や大学運営
の民主化などの課題を巡り争われた;航空学科の学生の一部もこの闘争に参加し航空学科のビルを封鎖した
*荒井徹もこの闘争に加わった。恐らく同世代の学生は、高校までの学校教育の影響を強く受け「社会主義に対する親和性」が高かったこと、またベトナム戦争に触発された「反戦・平和の運動」に加わりたいという意識があったこと、などが政治活動に参画した動機になっていたと思われる
*この闘争中に集会などで参加者全員で歌った歌:(インターナショナル)、(ワルシャワ労働者の歌)、(国際学連の歌)
*1968年08月、荒井徹、航空学科卒業旅行:(写真集)
1969年01月 徹、駒場寮奪還闘争(当時民青に占拠されていた)に参加し、頭部を負傷し東大闘争から脱落
1969年01月 東京大学・安田講堂に警官隊突入 ⇒ 東大闘争は実質的に終焉

1969年04月 佐藤秀子、青山学院女子短期大学英米文学部入学
1969年05月 父・忠作、荒井宅を埼玉県新座市あたご3-1-2に新築。父、サラリーマンの夢が叶う

1969年06月 荒井徹、東京大学工学部・航空学科卒業
1969年07月 荒井徹、東京大学工学系大学院修士課程(航空学専攻)入学
1970年03月 佐藤秀子、青山学院女子短期大学から米国アリゾナ州立大学に1ヶ月の短期留学

*大学新聞の記者の取材を受け、上の写真の様な記事が載った
1970年03月 大阪万博開催(~9月)

*大阪万博の歌「世界の国からこんにちわ」

1970年10月 佐藤秀子、青山学院女子短期大学2年で英語劇ゼミを選択し、青山祭でアメリカの短編劇を上演した
1970年11月 三島事件(防衛庁に押し入り最終的に三島由紀夫は割腹自殺)
1971年02月 父・荒井忠作死去(享年61歳) ⇒ (父・忠作の生涯)
1971年04月 佐藤秀子、日本航空入社、東京支店STBカウンターセールス部・八重洲カウンター配属
1971年06月 荒井徹、東京大学工学系大学院修士課程(航空学専攻)卒業
1971年07月 荒井徹、日本航空入社、整備訓練所配属
1972年01月 荒井徹、ライン整備工場第一点検整備課配属

1972年04月 佐藤秀子、東京支店カウンターセールス部・霞ヶ関ビルカウンター配属
*エピソード:徹の勤務は「日勤(8時~17時)⇒ 半夜勤(14時~22時) ⇒ 夜勤(22時~翌日8時)⇒ 夜勤明けでの休み ⇒ 休日」の5日サイクル、一方秀子の勤務は常日勤「月曜日~金曜日は日勤、土・日は休み」の7日サイクル。二人は徹の5日サイクルの勤務の内、曜日に関係なく半夜勤の勤務日以外デートをしていた!つまり5日の内、4日は会っていたことになる!
1972年04月 秀子、EF(航空会社社員に与えられる無料航空券)が使えるようになり、母・道子を連れて香港・台北・マニラ・グアム旅行
1973年01月 父・美代吉、持病の慢性腎炎が悪化して入院。人工透析が始まったばかりでまだ治療機器が少なく病床順番待ちの間は腹膜環流治療だった
<秀子・子育てに奮闘、徹・猛烈サラリーマンの時代>
1973年6月 荒井徹・佐藤秀子結婚 ⇒ 結婚式の写真集;結婚式の動画
*結婚式会場は神田一ツ橋の学士会館、ここは徹と秀子が初めて出会った場所

1974年1月

1973年04月 秀子、母・眞砂子、妹・真理子と返還されたばかりの沖縄旅行へ。まだ車は右側通行、貨幣はドル、免税でお酒も買えた
1973年10月 一次オイルショック
*第4次中東戦争勃発後、中東の産油国が原油価格を大幅に引き上げたことにより世界経済は大混乱に陥った。日本も物価の急激な上昇により大きな混乱が発生した
1973年01月 パリ和平協定が締結され、ベトナム戦争は終結
1973年11月 徹、ライン整備工場工務課配属
1974年09月 母・眞砂子とハワイ旅行

*ホテルの朝食のパンを母・眞砂子が持ち出したことを徹が咎めたところ不機嫌になり、以後しばらく険悪な状態が続いた。10年以上経った後に母・眞砂子は「あの時はまだ来たばかりの嫁の前で叱られたのに腹が立った」と笑って当時の思い出を語った
1974年09月 小金井三光院にて佐藤家の家族と撮影

1974年10月 秀子、第一子懐妊により日本航空退職
1975年04月 北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させ、米軍はベトナムから撤退した。南ベトナム軍・政府関係の高官及びその家族は、先を争って米軍の艦船、航空機に押しかけ米国への亡命を目指した

<子供たちの誕生>
1975年05月 清香誕生
1977年10月 健一郎誕生
1978年03月 徹、成田整備工場工務課配属(成田へ「金帰月来」の勤務)
*「金帰月来」とは:月曜日早朝に自宅から出勤 ⇒ 成田の独身寮滞在 ⇒ 金曜日終業後に自宅に帰還する
*工務課時代の業績:運航整備士人員計画にコンピューターシステム導入;国際線整備部門の成田展開計画策定;成田運航整備部門の整備シフト改定(固定シフト化)
1978年05月 成田空港開港

1979年01月 怜志誕生
1979年01月 第二次オイルショック
*イラン革命(パーレヴィー王朝滅亡)により、イラン産原油生産が激減したために石油価格が暴騰し、世界の経済に大きな影響を与えた。日本経済への影響は、第一次オイルショックに学んだ結果それ程大きなものではなかった
1979年06月 徹、整備部配属(自宅からの勤務に復帰)
*整備部時代の主たる業務:中長期の航空機整備計画、機材(航空機のこと)会議を主催し、整備計画、乗員(運航・客室)計画、空港の地上要員計画の整合を行う
1981年07月 旧自宅前にて;
*朋子ちゃん(兄・威雄の長女):10歳
*清香:6歳
*健一郎:3歳
*怜志:2歳
1982年04月 秀子、自宅で近所の中学生に英語を教え始める。その後1993年まで続け生徒数は延べ50人ほどになった。一部の元来優秀な子以外はほとんどが高校受験もままならない生徒たちだったが、それなりに役目を果たしてあげられたかと思う
1983年10月 子供達と初めての海外旅行。カリフォルニアのLinda(秀子の高校時代、佐藤家にホームステイがきっかけで友人となった)を訪問、ナッツベリーファーム、ディズニーランド、サンディエゴのシーパークなどLindaの子供達と楽しく過ごす
1983年10月 徹、羽田整備工場工務課配属
*重整備(10日~数ヶ月にわたる大きな整備)計画と重整備に必要となる引当機計画を、機材計画・乗員計画、空港地上要員計画を調整し策定する
*下記 JAL123便事故に伴う諸作業に1年以上忙殺された。また、下記事故調査報告書にある通り、ボーイング社による修理ミスを見抜けなかったJAL整備陣の一員としての自戒の念はその後長期間続いた。参考:事故原因に関わる徹のブログ「航空機の発達と規制の歴史」参照
1985年08月 JAL123便墜落事故

*事故調査委員会による事故調査報告書の解説
1986年06月 徹、成田整備工場企画グループ課長就任(昇格;成田へ「金帰月来」の勤務)
1988年03月 徹、整備企画室整備計画部 整備計画グループ課長就任(自宅からの勤務に復帰)

1988年03月 徹の母・荒井眞砂子死去(享年72歳)⇒ (母・眞砂子の生涯)
*亡くなる1年前の母と徹の写真:
1988年10月 秀子の父・佐藤美代吉死去(享年75歳)⇒ (父・美代吉の生涯 ← 近日中に作成予定)

1989年、アフガニスタン紛争 (1978年~)終結
*ブレジネフ政権時代から始まった長期間にわたる侵攻となったが、ソ連は山間地区での消耗戦を強いられ戦死者は1万5千人以上(アフガニスタン2百万人以上)に達し、その後のソ連崩壊のきっかけとなった
*1990年以降、日本国として政府専用機の導入プロジェクトが開始された。徹は整備企画室の立場でこのプロジェクトに関わったが、妹の真理子も財務部で防衛庁との交渉を行っていた。1992年、無事747-400による政府専用機の運用が始まった
1989年02月 秀子、母・道子、子供たちを連れてカリフォルニアの友人Lindaを訪問
1990年01月 バブル景気の崩壊
*資産価格の著しい低下(資産デフレ)により企業の経営状況が悪化(バランスシートの悪化)した。この結果、過剰な融資を行っている金融機関の内、不良債権隠しや先送りを行っていた証券会社や銀行は経営の危機に瀕することになった
*1997年11月3日・三洋証券破綻、11月17日・北海道拓殖銀行破綻、11月24日・山一證券破綻した ⇒「社長会見」
1990年08月 秀子、母・道子、健一郎、怜志を連れて欧州旅行
*経由地:パリ⇒ベルリン⇒デュッセルドルフ(友人と会う)⇒ケルン⇒コブレンツ⇒フランクフルト
1990年08月 徹、GLP(Global Leadership Program)という5週間にわたる経営学履修コースに参加
*このコースの目的:国際企業に所属する役員、部長クラスの人(徹はこの時点でまだその地位になっていなかった!)をグローバル人材に育てる教育・訓練を行う
*上記目的を果たすため、日本・米国・及び欧州の先進国から均等に参加者を選び、使用言語は英語とした
*教授陣は国際経営にに関わる一流の人材を集めた(GLP教授陣)
*この教育・訓練に関し、会社がGLP本部に支払った金額は5万5千ドル、当時の為替レートを適用すれば、日本円で約800万円に相当する
*参加者には一か月ほど前に事前学習の為の膨大な資料が送られてきた。この資料を読み込む為に、課長業務は午前中のみで済ませ、午後はこの事前資料を読み込むことに没頭した ⇒ 結果として自慢だった視力は極端に低下してしまった!
*5週間のコースは、「国際経営の為の基礎知識の習得」、「野外訓練等による国際人として必要な人格の形成」、「ソ連、インド(2チーム)、中国、ブラジルの5チームに分かれて、その国に出かけ、要人に面会した上で参入する企業の選択、戦略の立案などの模擬研究を行う」、「チーム毎に研究発表を行う」
*追加説明 ⇒ (GLPのプログラム概要)、徹の所属した「INDIA_B」チームの(Final Presentation)
1990年10月 東西ドイツ統一
*1989年11月9日の東・西ドイツの若者が中心で実行されたベルリンの壁の崩壊がきっかけとなった。右写真は、ブランデンブルグ門の前のベルリンの壁に昇った東・西ドイツの若者達
1990年12月 徹、経営企画室・機材グループ課長(兼)基礎技術部担当課長就任
*経営企画室時代の業務:路線便数計画に合わせた機材計画(航空機の購入・退役計画)の立案
*経営企画室時代の主たる業績:日本経済の長期低迷に合わせ、747-400の購入計画の大量キャンセル、777-300の大量導入、767の増機(但し、エンジン型式の変更/P&W社製 ⇒ GE社製)、737-400の新規導入(←国内線の小型化)
1991年8月 バルト三国独立宣言
1991年10月 徹・秀子、自宅を新築

*父・忠作がサラリーマン人生の集大成として新築した殖産住宅の木造建築は、未だ22年しか経ってなく十分使用に耐えるものだったが、3人の子供が思春期に達する年頃となり、一人一部屋を確保してあげたいという親心と、徹・秀子の夢(広い居間、使いやすいキッチン、屋上菜園、二階にジェットバスとサウナ、など)を実現する為には新築する必要があった

しかし父の建てた家が解体用特殊車両で無残に壊されていく時は、流石に万感胸に迫る思いが迫ってきた
1991年末 ソ連邦の崩壊

1991年12月 徹、経営企画室・グループ次長(兼)基礎技術部担当次長就任(昇格)
1992年06月 徹、経営企画室機材・機材生産グループ次長(組織改正)
1993年08月 秀子、新座少年少女合唱団欧州ツアーに同行。フィンランド、ハンガリー、エストニア訪問。これが後のエストニアとの文化交流に関わるきっかけとなる
*1993年08月 新座少年少女合唱団のエストニアでの公演(動画)
1994年04月 秀子、KDDジャパンダイレクト(国際通話サービス)の電話オペレーター(4日/週)を始めた。電子メールがまだ一般的で無かった時代、直接電話できない人やコレクトコール(電話を受けた側が通話料を負担する仕組み)のための電話サービスで、業務内容は、50分通話作業+20分休憩を一日4サイクル実施、世界中から途切れることなく電話が入って来て息つく暇もない仕事だったが面白かった
1994年06月 徹、日本アジア航空株式会社(以下「JAA」と表記)台湾支社管理部長就任(昇格;単身赴任)
*台湾支社時代の業績:間接業務のIT化推進、台湾人客室乗務員の二重課税問題への取組
*二重課税問題とは:JAA設立時には日本・台湾間に「租税条約」が無かったため、台湾人客室乗務員の所得税は日本と台湾で二重に課税されており、日本での課税分は会社が納めていた。その後「租税条約」が成立したあと、日本での課税分はJAA社に還付された。この事実を知った客室乗務員は、還付された租税分は客室乗務員本人に還付されるべきだと主張し、裁判となった。徹の任期中は結審しなかったが、後任の時代に客室乗務員側に譲歩することで解決が図られた
*秀子、在任中(~1996年11月)計9回訪台
1994年10月 愛犬「潤くん」我家に迎える
1994年11月 健一郎、バイクの重大事故で頸椎を骨折し一か月近く入院した。友人の同乗者も骨盤骨折の大怪我を負った
*日曜日の朝、秀子はKDD(アルバイト先)に出勤するとすぐに上司に呼ばれ、「息子さんが事故で浦和の病院に入院したと連絡があったので、すぐに行きなさい」と言われ、京浜東北線に飛び乗って北浦和の浦和市立病院へ。状況が掴めず頭の整理もできないまま、道中まるでドラマのようだと、どうしよう、どうしようと思うばかり、ただただ電車に揺られていた。病院に到着して顔を見た瞬間、生きていた!と心底ホッとした。「同乗者の方が深刻ですよ」と言われ、謝罪に病室へ。あとは何が何やら。ともかく専門医がいないので、明日来てくださいと言われて一旦家に戻ったものの、みるみる顔と頭が腫れてきて、恐ろしい状態に。折しも、徹は台湾での仕事に就いて数ヶ月目という状態、すぐには戻れないと言う。心細さに耐え、翌日整形外科医の診断を受けに再び浦和市立病院へ。レントゲンの結果「第4頚椎骨折、直ちに入院が必要。あと1ミリで全身麻痺だったよ」の言葉に、目の前が真っ暗になる思いがした。そこから絶対安静から始まった入院生活は1ヶ月、退院後もしばらくは頚椎カラー(コルセット)を装着していた
*同乗者のご両親の計らいで、保険の手続きをしていただけたが、秀子にとっては全く経験もないことで、どうして良いやらわからず、今考えるとただただオロオロしていたのだと、恥ずかしく思う。退院後、同乗者のご両親のところへ一緒に謝罪に。父君の難しい表情はいまだに記憶に残っている
*家庭裁判所では未熟な若者の無理な運転ということで道路交通法上の事件としては終わりを遂げた。それにしても、当時は本当に世間知らずで、自力で判断もできない人間であったとつくづく思い知らされた
1995年01月 阪神淡路大震災(死者数:4571名)
1995年07月 秀子、エストニアの少女合唱団Ellerhein(エレルヘイン;1993年の新座少年少女合唱団エストニア訪問の受け入れ先)来日ツアーを全国の合唱団の協力を得て企画実行。家族の迷惑も顧みない無謀な文化交流者の始まり
1997年04月 秀子、KDDとの契約が終了。同月、(株)エス・コミュニケーションズで翻訳・外国語プロモーションビデオ作成等の仕事に転職
1996年12月 徹、経営企画室B737新会社設立準備室長就任(東京勤務に復帰)
*新会社設立の理由:経営企画室時代に採算が合わないとして737-400の導入を反対したものの、国内営業担当役員の強い希望(JALが国内線のローカル線に進出したため)から導入が決まった。しかし、B737-400投入路線の赤字が経営上無視できなくなり、B737-400路線のみを運航する新会社を設立することになった
1997年07月 秀子、日本・エストニア友好協東京支部設立
1997年04月 徹、JALエクスプレス社(JEX)設立、代表取締役常務就任
*運航コスト削減の為に行った改革:外人パイロットの採用(←給与削減)、プロパーの客室乗務員(スカイキャスト)の採用(←給与削減)、運航・客室乗務員の勤務時間の延長(←人員効率の向上)
1998年04月 JEX本社大阪移転に伴い、徹、大阪赴任(単身赴任)
1998年07月 JALエクスプレス便・初就航
1999年04月 清香、本田技研工業(株)入社
*秀子、深夜清香を入間にある入社研修宿泊先に送った帰り、居眠り運転の若者の車に正面衝突されるが、軽症で済んだ。この時、担当医師から高血圧を指摘される。徹は「あなたは奥さんを殺す気か?」と脅された
1999年05月 徹、整備企画部長就任(東京勤務に復帰)
*整備企画部での業績:整備部門にカンパニー制の導入
*カンパニー制とは:「カンパニー制とは」、「整備カンパニーの戦略」
2000年04月 徹、整備本部副本部長(昇格)兼、成田整備事業部長就任
2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ事件発生;

<事件の経過>
*午前88時46分(東部夏時間)に、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンのワールドトレードセンター(WTC)の北塔(WTC1)に、アメリカン航空11便が突入
*午前9時3分に、ユナイテッド航空175便が南塔(WTC2)に突入
*午前9時37分に、アメリカ軍のペンタゴン本部にアメリカン航空77便が突入
*午前10時3分に、ユナイテッド航空93便がペンシルベニア州シャンクスビル近くの農地に墜落(乗客がテロリストに立ち向かったため、目的地であるワシントンD.C.への攻撃を防いだ)
<テロリストグループ>
*アフガニスタンを拠点とする過激派イスラム組織「アルカイダ」が実行(指導者のウサマ・ビン・ラディンは、アメリカ政府による報復攻撃で2001年5月に死亡
<犠牲者と被害>
*死者2,977人(内、246人が4機の航空機に搭乗していた乗員・乗客、19人がテロリスト、411人が救助活動に従事していた消防士、72人が警察官
*WTCのビルは完全に崩壊し、周辺の建物も大きな被害を受けた
2002年06月 徹、日本航空退社
2002年06月 徹、ジャル航空機整備東京 代表取締役社長就任
*ジャル航空機整備東京時代の業績:認定事業場の資格取得
*任期中(2002年~2005)に会社の新聞に載せた「新年号の巻頭言」
*年始式の挨拶:「2003年を迎えて」、「2005年を迎えて」
*下の写真は、毎年数回に分けて行われていた「新入社員の御巣鷹山慰霊登山」時の集合写真。新入社員はこの登山によって整備士としての責任を実感することになったと思われる;

<孫たちの誕生;秀子・子育てから解放され自由人へ;徹・培ってきた経験を外で生かす時代>

2003年01月 服部光洋・荒井清香結婚式 ⇒ 結婚式の動画
2003年09月 徹、独立行政法人・原子力安全基盤機構・監事就任
*原子力安全基盤機構での業績:航空安全にかかわる知識を、原子力規制の参考として提供
*東日本大震災(2011年9月11日)における福島原子力発電所の事故を原子力規制の中枢で体験
2005年01月 秀子、軽度の脳梗塞を発症し1ヶ月入院 エス・コミュニケーションズ退職
*清香(結婚)、健一郎(NYC留学中)、怜志(独立)はすでに家を出ていたので、秀子入院中の潤くんの世話は徹が引き受けていた。仕事と病院通いとで多忙を極めた
2005年06月 徹、ジャル航空機整備東京社長退任 ⇒ 顧問就任
2005年06月 秀子、共進商事(株)にバルト三国デスク開設してもらう。フィンランド航空のバルト三国広報宣伝などの手伝いをする
2005年09月 秀子、エストニアのタリンフィル室内管弦楽団来日公演を企画運営を行った
*1月に脳梗塞を患ったばかりの時期であった為、家族・親戚が全面的にサポート実施
*新宿オペラシティ、河口湖、鎌倉建長寺で公演を行った
2006年10月 服部明良君、ポッポの森運動会(動画)
2007年01月 服部明良君と潤君(動画)
2007年02月 愛犬・潤くん没 (享年12歳6ヶ月)

2007年04月 徹、ジャル航空機整備東京・退社
2007年04月 徹・秀子、母・道子、服部ファミリーと伊豆・大島旅行(動画)
2007年10月 徹、日本航空定年退職に伴うご褒美!となっている夫婦での卒業旅行に出かける:「旅行中の写真」
*ご褒美!の内容:日本航空の路線を使用する時は無料、且つ First class 席の予約が可能
*旅行先:ハンガリー、オーストリア、ドイツ
2008年09月 母・道子脳梗塞で左半身不随となる
2009年08月 徹、桜美林大学・特任教授就任
*講義内容:エアラインの営業戦略、エアラインの乗員(パイロット)養成・乗員計画、エアラインの整備ビジネス
*講義内容を整理したものは以下のブログに纏めてあります:「エアライン・ビジネスについて」、「航空機の安全運航を守る仕組み」

2009年08月 秀子、エストニアの少女合唱団・Ellerheinの2回目の来日ツアーの企画実施

*仙台、湯沢(秋田県)、奥会津、東京、大阪、和歌山、広島(平和記念式典参列)で公演
*東京(杉並公会堂)には美智子皇后(当時)陛下がご臨席。宮内庁、皇宮警察、杉並警察署等、準備の周到さに驚愕。皇后陛下と指揮者との再会、会談など楽屋で行われ、身近で美智子様に拝謁、役得!を喜ぶ
*母・道子も車いすで鑑賞でき、多少の親孝行ができた感があった

*エストニア大使館での(演奏)
2010年04月 徹、独立行政法人・原子力安全基盤機構・監事としての定年に伴い「顧問」就任
2010年 秀子、日本・エストニア友好協会・本部事務局長就任
2010年05月 秀子の母・道子死去(享年89歳) ⇒(母・佐藤道子の思い出)
2010年10月 秀子還暦祝@伊香保温泉(動画)
2010年12月 服部ファミリーと年末スキー@菅平スキー場(動画)
2011年03月 東日本大震災(死者数:15,844名、行方不明者: 3,394名)
2011年10月 服部明良君・昇吾君の運動会(動画)
2011年11月 荒井咲花(えみな)ちゃんのお宮参り(動画)
2011年12月 服部ファミリーと年末スキー@岩原スキー場(動画)
2012年12月 荒井健一郎・小川江里香結婚式 ⇒ 結婚式の動画

2013年03月 荒井健一郎、(合同会社)シティライツフィルムス設立し代表を務める。顧客の依頼に基づき「映像撮影、編集」を行っています
2015年08月 服部清香、上海事業所に家族帯同で赴任(~2019年2月)

2014年01月 荒井怜志、(株)ワンノート設立、代表取締役就任。業務内容については 「履歴事項全部証明書」参照
2014年03月 徹、独立行政法人・原子力安全基盤機構が原子力規制庁に統合されたことに伴い退任
2015年05月 徹、荒井咲花さんが歌う「じいじ70歳おめでとう(作詞・作曲 by 荒井健一郎)」
2015年08月 徹・秀子、中国への歴史旅
*上海に赴任していた服部清香を頼り、予てより調査したいと考えていた「大連、旅順、長春、瀋陽」の各都市と;「徹が生まれた瀋陽の住居跡」、満州からの引揚の際中国からの出発地となった「葫蘆島」を訪ねた
*写真のスライドショー、動画は以下を参照:「大連の旅」、「旅順の旅」、「長春の旅」、「瀋陽の旅(徹の生誕地を含む)」、「葫蘆島の旅」
2016年03月 徹、桜美林大学・特任教授、定年に伴い退任

2017年12月 秀子、エストニア外務省から感謝状贈られる

<徹&秀子・悠々自適の生活;孫たちの成長を喜ぶ生活>
2018年04月 服部明良君、栄東(さかえひがし)中学校入
2018年09月 秀子、エストニア大使館からの依頼でエストニア発祥のグローバルごみ拾い運動 WORLD CLEANUP DAYを日本に広める活動を開始
2019年03月 清香、上海から帰任(家族は1年前に帰国)
2019年04月 近藤真理子(徹の妹)、肺がんにより死去(享年70歳)
*真理子は、後半生友人とシャンソンを歌うのを楽しんでいました⇒(2006年12月_真理子シャンソン発表会)、(2007年5月 魅惑のシャンソン 真理子)、(2009年7月 パリ祭を迎えて・シャンソン演奏会)、(2010年4月 近藤真理子シャンソンを唄う)
2020年2月 新型コロナウイルス感染拡大 ⇒4月緊急事態宣言発令
*怜志、新座の自宅にてリモートワーク開始
2022年01月 秀子、ごみ拾い活動をNPO法人WORLD CLEANUP DAY JAPANとして法人化、副代表理事に就任
2022年04月 服部昇吾君、聖徳学園中学入学
2023年04月 清香、フィリピンへ単身赴任、ホンダフィリピン(現地法人)社長就任(昇格)
2023年06月 荒井和子(徹の兄・威雄の妻)、パーキンソン病により死去(享年77歳)、戒名:薫風和景信女
*和子さんは、後半生俳句や墨絵を趣味にしていました。これらの作品の内、本人が秀作を選び、「囀(さえずり)」という句集に纏めています
2023年08月 佐藤浩一(秀子の兄)、心臓発作により死去(享年77歳)

2023年11月 清香、ビジネス誌に載る

2024年04月 服部明良君、明治大学商学部入学 ⇒ 徹の大好きな「明治大学校歌」
2024年04月 荒井咲花さん、青山学院中等部入学
2025年04月 清香、ホンダベトナム社長就任
2025年04月02日、徹、傘寿の祝い「じいじ80歳おめでとう(作詞・作曲・演奏 by 荒井健一郎)、歌 by 健一郎&咲花」

2025年8月28日 荒井威雄、多発性骨髄腫により死去(享年84歳)、戒名:博学威徳信士
2025年12月28日 秀子の次兄・貞二、すい臓がんにより死去(享年77歳)、戒名:大光院無双貞徳居士
*2026年1月6日、通夜
*2026年1月7日、葬儀・告別式

スポーツ界、空手道界(剛柔流)で活躍していた故人に相応しく会葬者は300名以上(推定)、多くの著名な方々から献花が行われました
70歳で全ての職を離れてから、同居している次男・怜志に勧められて始めたブログは、引き続き投稿を継続しています;
① 退職サラリーマンの遠吠え(PW無し)
② Family Story(PW:manchuria)
今読ませて頂きました。
いや~実に上手く纏められていて、得にお二人の子供時代の出来事等は初めて聞く事も多く、眞理子も喜んでいました。